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HANDEL
1707



 当時のドイツなどの国の音楽家であれば誰もがイタリアに憬れを抱いたことでしょう。そして実際数多くの音楽家の卵たちがアルプスを超え南の国に留学をしています。
 ヘンデルは1706年の秋頃から1710年の春にかけてイタリア中をまわります。彼は多くのパトロンたちのもとで音楽活動―作曲やチェンバロ演奏―をして歓迎を受けます。
 束縛を嫌った彼は客人としてもてなされる待遇を好み、定職につくことはありませんでした。そのためヘンデルのイタリア時代はいまだにその多くが謎に包まれています。正確な旅行経路をたどることすら出来ないのです。
 作曲活動についても、その全貌が分かっているわけではありません。しかしこの滞在を通して彼が音楽的に大きな成長を遂げたことだけは間違いありません。ことにイタリアの高度な「歌」や「旋律」の知識技術を身につけたことが、後のオペラ作曲家ヘンデルの基礎となっていることは言うまでもありません。
 イタリア滞在中に作曲されたオペラは2曲だけですが、1709年暮れにヴェネツィアで発表した《アグリッピーナ》は大熱狂を引き起こし、彼に大きな自信を与えました。
 


IL TRIONFO DEL TEMPO E DEL DISINGANNO

HWV 46a
オラトリオ(イタリア語)
初演:1707年7月、ローマ
台本:ベネデット・パンフィーリ Benedetto Pamphili

 おそらくフィレンツェに滞在した後、ヘンデルは1707年1月にローマにいたことははっきりしています。彼はこの地に1年半ほど留まっていたと推測されています。ここでヘンデルは教会有力者たちの援助を受け活動します。
 この援助者の一人がパンフィーリ枢機卿でした。この《時と悟りの勝利》はそのパンフィーリ枢機卿の台本によるオラトリオで、ヘンデルのイタリア滞在中初の声楽大作となりました。
 当時のローマではインノケンティウス11世の発布したオペラ禁止例のため劇場でオペラ上演はできませんでした。しかしそのかわり舞台演技を控えて題材を宗教的な内容にしただけで形式的にはオペラと大差ない作品を、豪華な歌手たちをそろえ頻繁に上演していました。《時と悟りの勝利》もそうした作品の一つですが、題材は聖書から取られたものではないので、ややカンタータ的な性格も強いものです。この作品はおそらくやはりヘンデルの援助者だったピエトロ・オットボーニ枢機卿の宮殿で上演されたと推測されています(パンフィーリの宮殿で行われたという意見もあります)。

 “美しさ”に“快楽”はその永遠を誓っていますが、しかし“時”と“悟り”はつかの間の美に酔うことを警告します。“美”は悩みつつも、真実を映しだす鏡に心が動いて行きます。そして迷いを振りきり“快楽”を追い出し、神に祈る、といった道徳的な物語。

 この作品のリハーサルでのおもしろいエピソードをマナリングが伝えています。
 当時オットボーニ枢機卿の宮殿で音楽監督を務めていたのは高名なアルカンジェロ・コレッリでした。ヘンデルはこの偉大なヴァイオリニストの演奏、作品から大きな影響を受けています。そして《時と悟りの勝利》の初演でヴァイオリンのトップ(つまりは指揮者とみなして良いでしょう)を務めたのもコレッリでした。しかしコレッリのおっとりした序曲の演奏をヘンデルはどうしても気に入りませんでした。ついにヘンデルは爆発し、コレッリの手からヴァイオリンを奪い取るとどうやって弾くべきか自分で手本を示したのです。これに対し大先輩であるコレッリは穏やかにこう答えたそうです。「しかしザクソンの人よ、この曲はフランスの流儀で書かれてるので、私たちにはさっぱりわからないのです」。結局ヘンデルはリュリ流儀の序曲を引っ込めてしまったようで、現在聞けるのはイタリア風のシンフォニアです。
 さて音楽ですが、枢機卿お抱えの優秀な楽団と歌手を利用できたわけですから、ヘンデルとしても非常に技術的に高度な音楽があちこちにあります。アリアはもちろんですが、とりわけ感嘆してしまうのが第2部の四重唱 Voglio tempo。決心に揺れる美を、快楽と時、悟りがそれぞれ説得しようとするものですが、これは後のロンドンでのイタリアオペラでヘンデルが重唱をあまり作ってくれなかったのが悔やまれる非常に密で緊迫感に富む素晴らしい曲です。また第1部で快楽が見せる若さと喜びの国は器楽だけで(ソナタ)表されているのですが、これは事実上小さなオルガン協奏曲となっています。もちろんヘンデルがオルガンを弾いたことでしょう。また幕切れの美のアリアが静かに余韻を残して終るのも印象的です。
 ただ、合唱も男声低音も欠いた4人の歌手だけではこうした決して起伏の大きくない哲学的寓話を支えて行くにはやや限界が感じられるのも事実です。
 なお第2部の快楽のアリア Lascia la spina(《アルミーラ》のサラバンドからの転用)は、《リナルド》の有名な Lascia ch'io pianga の元になった曲です。

Lucy Crowe, Hilary Summers, Anna Stephany, Andrew Staples
Early Opera Company
Christian Curnyn
London, 29 January 2010
WIGMORE HALL LIVE WHLive 0042/2

Roberta Invernizzi, Kate Aldrich, Martin Oro, Jörg Dürmüller
Academia Montis Regalis
Alessandro De Marchi
Mondovì, 12-16 June 2007
hyperion CDA67681/2

Natalie Dessay, Ann Hallenberg, Sonia Prina, Pavol Breslik
Le Concert d'Astrée
Emmanuelle Haïm
Paris, 9-14 March 2004
Virgin Classics 0946 3 63428 2 5

Deborah York, Gemma Bertagnolli, Sara Mingardo, Nicholas Sears
Concerto Italiano
Rinaldo Alessandrini
Monteporzio Catone, September 2000
OPUS111 OP 30321

Isabelle Poulenard, Jennifer Smith, Nathalie Stutzmann, John Elwes
Les Musiciens du Louvre
Marc Minkowski
Aix-les-Bains, March 1988
ERATO 2292-45351-2


VINCER SE SETSSO È LA MAGGIOR VITTORIA
(RODRIGO)

HWV5
オペラ(イタリア語)
初演:1707年11月頃、フィレンツェ、ココメロ通りの市立学術劇場
台本作家:フランチェスコ・シルヴァーニ
原作:シルヴァーニの台本は本来マルカントニオ・ジアーニのオペラ《愛と復讐の争い Il duello d'amore e di vendetta》(1699、ヴェネツィア)のためのもの。これを元に改訂が加わっている

 イタリアへと渡ったヘンデルはおそらく1706年の秋から翌07年の初めまでフィレンツェに滞在した後、1月の前半にローマに移動したと思われます。ここでオラトリオ《時と悟りの勝利》を発表、同時にフィレンツェのための《自分に勝つことは大いなる勝利である》(長ったらしいので、普通は《ロドリーゴ》とよばれます)の大半を作曲したと推測されています。この作品の作曲の経緯というものは謎のままですが、ともかくヘンデルはおそらく1707年の10月の半ば頃ローマを離れフィレンツェ(10月19日にはフィレンツェにいることが確認されています)に向かっているのです。
 作品は随所でヘンデルらしさを見せています。ただ台本の構成が悪いせいもあるでしょうが、ロンドン時代のヘンデルのオペラに比べるとやや散漫な印象は否めません。
 《ロドリーゴ》はそのままでは上演できないほど一部が散逸していました。その復活の道程はなかなかに興味深いものです。
 まず1970年にウィントン・ディーンがシルヴァーニの台本を発見、さらに1974年にラインハルト・シュトロームが1707年の台本を発見、これで物語りの概要ははっきりしました。
 手稿譜は第1幕の冒頭と第3幕の冒頭と幕切れの場面がすっぽり欠けていました。そのうち第3幕冒頭のロドリーゴのアリアと幕切れのコーロは二つの英国の図書館から発見されました。それらをつなぐレチタティーヴォは1983年にアンソニー・ヒックスとウィントン・ディーンが発見した新たな筆写譜の中にあり、これで第3幕はほぼ復元できました。
 残った第1幕の冒頭の部分のうち、ロドリーゴのアリア"Occhi neri"は、1758年の《時と真実の勝利》の中に転用していることが判明、実に半世紀後の楽譜から蘇ったのです。残ったレチタティーヴォは補筆されています。
 こうした努力によって、《ロドリーゴ》は上演可能な状態にまで蘇ったのですが、しかしヘンデルがローマで完成させた手稿譜はフィレンツェでの上演を前にして様々に改編されたことがわかっています。それらは、例えば歌手の力量に合わせての手直しだったり、歌手の要求に応じての追加や差替えだったり、検閲の要求による削除だったり、理由は様々で、それらを把握する事は失われた実際の上演での指揮用譜面が発見されない限りは不可能でしょう。
 音楽は、いろいろな意味でヘンデルの初のイタリア・オペラとしての特徴をたくさん含んでいます。中でも後のオペラへの素材の提供は数多く、ヘンデルがお好きな人なら聞いていると「あ、これはあの曲の原形だ」と気づくものがあちこちにあります。
 ただ、後のロンドンでのイタリアオペラと異なり、イタリア語のわかる聴衆を相手に作られたものですから、スカルラッティらのイタリアオペラ同様レチタティーヴォ・セッコの分量が多く、後のヘンデルのオペラに慣れているとこれがややまどろっこしく感じてしまいます。

Maria Riccarda Wesseling, Maria Bayo, Sharon Rostorf-Zamir, Kobie van Rensburg, Max Emanuel Cencic, Anne-Catherine Gillet
Al Ayre Espagnol
Eduardo Lopez Banzo
Mezt, March 2007
Vergin veritas 5 45897 2

Gloria Banditelli, Sandrine Piau, Elena Cecchi Fedi, Rufus Müller, Roberta Invernizzi, Caterina Calvi
Il Complesso Barocco
Alan Curtis
Siena, July 1997
Vergin veritas 5 45897 2

Derek L. Ragin, Norma Sharp, Pamela Hamblin, Keith Olsen, Frances Ginzer, Ursula Kunz
Deutsche Händel-Solisten
Charles Farncombe
Karlsruhe, June 1987
SÜDDEUTSCHER RUNDFUNK STUTTGART F 670.023-25

 カールスルーエでの西ドイツ初演をもとにシュトゥットガルト南ドイツ放送局がスタジオ収録し、LPで発売したもの。




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Appendix 1 Appendix 2 Appendix 3


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