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HANDEL
1737




ARMINIO

HWV36
オペラ イタリア語
初演:1737年1月12日、ロンドン、コヴェントガーデン劇場
台本:アントーニオ・サルヴィの台本を第三者が改編
原作:サルヴィの台本は本来ペルティのオペラのためのもの(1703、プラトリーノ)

 ヘンデルは1736年の9月15日に《アルミーニオ》に取りかかると、一月後の10月14日には完成させます。しかしこの前後に作曲された《ジュスティーノ》とともに、コヴェントガーデンの舞台に掛けられるのは年が明けてからのことでした。

 アルミニウスという人物は、ドイツ民族にとっては極めて特別な意味を持つ人です。AC9年、オクタヴィアヌス帝(=アウグストゥス帝、カエサルの養子)の時代、強大な力をもったローマ帝国に対して、ゲルマン民族のうちの一部族でしかなかったケルスキ族の首長アルミニウスが、トイトブルクの森(ウェストファーレンの山地)で、ローマの総督クインテリウス・ヴァルスの率いるローマ軍を打ち破ったのです。この時アウグストゥス帝はヴァルスに対し、「ヴァルスよ、我が軍団を返せ!」と言ったと伝えられています。これによってローマはゲルマニア支配を断念し、ライン川を北の国境とみなし、後にハドリアヌスの壁が築かれることになりました。これがいかに大事件だったかということは、かつて長いことドイツの歴史がトイトブルクの森の戦いから始まったとされていた、ということからも理解できます。
 もっとも、いつものことですが、物語はこうした歴史にはほとんど関係してはいません。

 ライン側沿を支配していたゲルマンのケルスキ族の長、アルミーニオは、ヴァーロ率いるローマ軍に攻められ、ゲルマン軍は敗走してしまいます。アルミーニオの妻トゥスネルダが慌てて駈け込んで来て、アルミーニオにすぐ逃げるように諭します。ヴァーロがローマの隊長、トゥッリオを伴って登場。ヴァーロはトゥスネルダを愛していることをトゥッリオに告げます。トゥッリオは、将軍としてローマ人として恋の苦しみなど控えるべき、と彼に諫言しますが、ヴァーロは恋は戦場での勇気と煽るのだ、と気にしません。一方、ゲルマンのカッティ族の長でトゥスネルダの父、セジェステはローマ側に寝返ってしまいます。捕らえられたアルミーニオが連れてこられ、セジェステの裏切りを激しく非難し、国を引き渡すくらいなら死んだ方が良いと降服を突っぱねます。セジェステは怒り、アルミーニオを殺害する決心をします。セジェステの城の一室、彼の息子シジスモンド(つまりはトゥスネルダの弟)は今しがた見た夢の意味を考えています。そこへ彼の妻でアルミーニオの妹のラミーゼとトゥスネルダが現れます。トゥスネルダはアルミーニオが捕らえられたことを伝え、ラミーゼはセジェステの裏切りに夫を非難します。シジスモンドとトゥスネルダは苦悩を嘆きます。セジェステはアウグストゥス帝から彼の行為に報いるとの手紙を受け取ります。セジェステはシジスモンドに、ラミーゼと別れより有利な結婚をするよう求めます。シジスモンドはラミーゼとの愛を否定するくらいなら死ぬと、これを拒みます。セジェステはトゥッリオに、ゲルマンとローマの恒久的な和平を望むならアルミーニオは死ななくてはならない、と述べます。しかし同時に彼は娘トゥスネルダへの影響も心配しています。トゥッリオは、トゥスネルダは、彼女を愛しているヴァーロと結婚すれば良いと告げます。そこへヴァーロがアウグストゥス帝からの手紙を持って来ます。皇帝もアルミーニオの死を認めます。一方、鎖に繋がれ厳重な監視下に置かれているアルミーニオは、しかし自分の死によってゲルマンの独立が保たれることに満足しています。セジェステが現れ、アルミーニオがローマに屈服することで恩赦を申出ます。アルミーニオはこの恥ずべき申出を断わり、セジェステに、そうした振るまいがいつか後悔の念をもたらすと予言します。セジェステはトゥスネルダに、ローマに服従するようアルミーニオに説得することが夫を救うことができると告げます。夫同様彼女も不名誉よりも名誉ある死を選び、セジェステが夫を解放しないなら自殺すると答えます。そこへラミーゼが現れ、セジェステを裏切り者となじり短剣を突き刺そうとします。しかしこれはシジスモンドに妨げられます。セジェステはアルミーニオの処刑を命じに去ります。シジスモンドはラミーゼをなだめ、父の代りに自分が死ぬとラミーゼに言いますが、彼女は立ち去ってしまいます。シジスモンドはラミーゼへの愛と父への義務の板ばさみに苦しみます。牢獄のアルミーニオはヴァーロを呼びます。トゥスネルダは彼に自由を求めるよう忠告しますが、彼は死を決心しています。アルミーニオはヴァーロに、自分が死んだ後トゥスネルダの世話を見るよう委ねます。ヴァーロとトゥスネルダは仰天します。しかしトゥスネルダアルミーニオを信じています。彼女はヴァーロに、もし敬意を求めるなら、夫を救うよう働きかけることだ、と言います。アルミーニオの処刑台が組み立てられています。彼は驚きもせず、彼のローマへの勝利の光景と捉えます。ヴァーロは、トゥスネルダに要求されたように、アルミーニオの処刑を中止しようとしてセジェステと言い争います。そこへトゥッリオが駈け込んで来て、ゲルマンの軍が新たな攻撃を始まめた知らせます。アルミーニオは独房に戻されます。夫が死んだと思っているトゥスネルダは後を追おうとして毒とアルミーニオの剣のどちらかを選ぼうとしています。ラミーゼはアルミーニオが生きているが依然危険な状況下にいることを告げます。二人は再度アルミーニオを救おうと、毒と剣をもって出かけます。彼女達はシジスモンドを見つけ、アルミーニオを引き渡さなければ自害すると彼を脅します。シジスモンドは毒を投げ捨て剣を奪いますが、様々な考えに苦しみます。彼は立ち去ってしまします。トゥスネルダとラミーゼが悲しんでいると、アルミニーオが現れ、妻と妹と喜び再会します。シジスモンドが彼を解放したのです。アルミーニオは剣を取り戦いに出ます。ラミーゼとの関係を怒るセジェステに、シジスモンドは、アルミーニオを解放したことを白状します。セジェステはシジスモンドとラミーゼを逮捕させます。ローマ軍は敗走し、ヴァーロは倒れ、アルミーニオをは城を占拠します。トゥッリオはセジェステに逃げるよう促しますが、彼は死を選びます。しかしアルミーニオは彼の命を許したばかりか、友好を申出ます。この寛大さにセジェステも彼に忠誠を誓います。シジスモンドとラミーゼは結ばれ、アルミーニオはトゥスネルダと愛を確かめ合います。一同の徳を称える声で幕となります。
 人間関係が結構込み入っており、全体としては登場人物の葛藤がクローズアップされた渋い物語になっています。

 《アルミーニオ》の特徴として、二重唱を効果的に用いていることがあげられるでしょう。
 ヘンデルは幕が上がって早々の第1曲目にトゥスネルダとアルミーニオの二重唱を持ってきています。このアンダンテ・アッレーグロの二重唱は、アルミーニオの急迫した状況を表すに見事な効果をあげています。一方、第3幕ではまずトゥスネルダとラミーゼという二人のソプラノ役に二重唱"Quando più minaccia il Cielo"を与えています。ヘンデルがオペラにソプラノの二重唱を用いるのは極めて異例なことです。アルミーニオの運命を、妻と妹がそれぞれ案ずる暗い翳の美しい曲となっています。第3幕ではさらに最終場面、コーロの前ににトゥスネルダとアルミーニオの今度は喜びの二重唱が置かれています。つまり夫婦の二重唱で始まり二重唱で終る、という枠組みをつくっているのです。
 アルミーニオを歌ったのはドメニコ・アンニバーリというアルト・カストラートでした。彼に与えられたアリアでは何と言っても第2幕の"Sì cadrò, ma sorgerà"が素晴らしいものです。このアリアに先だってアルミーニオは、祖国の独立を守るため死を受け入れる悲痛な"Duri lacci, voi non siete"を歌うのですが、その後セジェステから国の平和のためローマに服従しろと言われ、烈火のごとく怒りこのアリアを歌うのです。いかに主役とはいえ、当時のオペラ・セリアで二つのアリアを歌うことは大変珍しいことです。この"Sì cadrò, ma sorgerà"、ニ短調、3/8拍子で、伴奏はほとんど16分音符の激しいもの。同様に第3幕、解放されたアルミーニオの"Fatto scorta al sentier della gloria"でのハ長調、6/8、アンダンテの流れるような音楽の喜びも見事です。
 非常にユニークなアリアがシジスモンドに与えられています。第3幕でシジスモンドは愛と義務の板ばさみに悩み歌う"Il sangue al cor favella"の中で、ヘンデルは途中で伴奏を完全に止め、シジスモンドにどうするべきか自問させます。彼の苦悩がストレートに伝わって来る鋭いアリアとなっています。
 この他トゥスネルダ、ラミーゼなどにも良いアリアが与えられています。ただ正直なところ、全体としてヘンデルの強烈な個性はやや希薄といった気がします。
 また極端なくらいレチタティーヴォは簡略化されており、かなりギクシャクとした展開になっているのはあまり誉められたものではないでしょう。
 おもしろいのは幕切れのコーロで、ト短調で書かれているのです。なんとも独特のエンディングとなっています。

Vivica Genaux, Geraldine McGreevy, Dominique Labelle, Manuela Custer, Luigi Petroni, Sytse Buwalda, Riccardo Ristori
Il Complesso Barocco
Alan Curtis
Siena, July 2000
Versin veritas 5 45461 2

 シエナでのイタリア初演(!)直後のセッション録音。大ベテランカーティスの音楽は安定していますが、歌手も含め今一つ決め手にかけます。
 ドイツ語とフランス語にはちゃんとしたあらすじがあるのに、英語ではドンナ・レオンによるあらすじとも楽曲解説ともつかない中途半端なものしかなく、大変不便です。これはラジオ番組からとられたものだそうです。上記あらすじはドイツ語からまとめたもの。
 また、リブレットの英訳もどうも難しいと思ったら、1737年の英訳をそのまま使っているとのこと。ひどい手抜きです。


GIUSTINO

HWV37
オペラ イタリア語
初演:1737年2月16日、ロンドン、コヴェントガーデン劇場
台本作家:

 《ジュスティーノ》は、《アルミーニオ》よりも早く、1736年8月14日に着手し、9月7日までに概要をまとめています。しかしここで一旦これを置き、一月で《アルミーニオ》を完成させます。そして《アルミーニオ》を完成の翌10月15日に再び《ジュスティーノ》に取り組み、最終的に20日に完成させています。
 ジュスティーノとは6世紀初めの東ローマ皇帝、ユスティノフ1世(在位518-527)のことです。彼は農民の出身ですが、親衛隊で名をあげ、ついには皇帝の座にまで昇りつめたのです。物語はこの史実をもとに、当然のように実に様々な要素をごちゃ混ぜにしています。
 熊に襲われたお妃の妹さまを救って出世のきっかけを掴んだり、海から出てきた怪獣を退治したり、宿敵の正体が実の兄弟と判明したり。妹さまとの恋物語は当然、お妃さまに気に入られたおかげで皇帝から嫉妬され監禁され、それを妹さまが助け・・・、とまさに波乱万丈なんでもありの立身出世武勇絵巻です。とにかく次々と事件が起こり状況が変わっていく(特に第三幕)ので、頭を切り替えるのが大変です。
 こうしたお気楽さと裏腹に、この時期のヘンデルは極めて危険な状況にありました。「貴族オペラ」との抗争は確実に共倒れに近づいていました。これを打破するために彼は1736年11月に始まったシーズンに信じられないほどのエネルギーを費やしたのです。オペラだけでも、《アルチーナ》、《アタランタ》、《ポーロ》を次々と再演、年が明けて1737年の1月に《アルミニオ》を初演、《パルテノーペ》を再演、そしてそのとどめが《ジュスティーノ》だったのです。
 しかしながら事態は一向に好転しませんでした。《ジュスティーノ》はその年の6月までの全てを合わせ9回上演され、それで終りでした。
 なりふり構わぬ何でもありのオペラの背景には、ヘンデルの悲愴な決意があったようです。

Chance,Roschmann,Kotoski,Gondek,Ely,Lane,Padmore,Minter
Freiburger Barockorchester
McGegan
Gottingen,13-17 June 1994
HARMONIA MUNDI FRANCE HMU 907130.32


IL TRIONFO DEL TEMPO E DELLLA VERITÀ

HWV 46b
オラトリオ イタリア語
初演:1737年3月23日、ロンドン、コヴェントガーデン劇場

Claron McFadden, Elisabeth Scholl, Nicholas Hariades, Peer Abilgaard
Junge Kantorei, Barockorchester Frankfurt
Joachim Carlos Martini
Eltville am Rhein, 31 May 1998
NAXOS 8.554440-2


BERENICE,Regina d'Egitto

HWV38
オペラ イタリア語
初演:1737年5月18日、ロンドン、コヴェントガーデン劇場
台本:?

 《ベレニーチェ》は、ある意味でヘンデルのオペラ活動の最下点で発表された作品と言えるかもしれません。
 これまでの状況を見れば分かる通り、「貴族オペラ」との競合はただただ双方にとってマイナスでしかありませんでした。いかに精力的なヘンデルといえども、さすがに追い詰められていたのではないでしょうか。
 彼は時間のある夏から秋の間に《アルミーニオ》と《ジュスティーノ》を前倒しに作曲しておき、11月からのシーズンではまず再演(《アルチーナ》、《アタランタ》、《ポーロ》)を、そして年が明けて新作を発表していました。この多忙な12月から1月にかけて《ベレニーチェ》は作曲されています。また彼はオペラ以外にもオラトリオなどの合唱曲も精力的に上演していました。
 こうした戦いは、間違いなくヘンデルの身体を蝕んでいました。彼は4月13日、ついに倒れてしまいまったのです。卒中でした。
 驚異的な体力の持ち主だったヘンデルですが、今回は回復が非常に遅れ、結局《ベレニーチェ》の初演に立ち合うことはできませんでした。当時のオペラの上演では作曲者が立ち合わないと話になりませんでしたから、《ベレニーチェ》の評判も上がりませんでした。わずか4回!の上演で終ってしまったのです。
 コヴェントガーデンのシーズンはなんとか続けられ、6月10日と21日に《アルチーナ》が、6月5日と25日に《アレクサンダーの饗宴》(これは3月の公演の再演)の上演がありました。この25日がコヴェントガーデンでの興行の最終日となりました。
 それだけではなく、ライヴァルの貴族オペラも終りを告げていました。ファリネッリを始めとするイタリア人歌手たちは皆ロンドンを後にしました。
 ここに長い長いヘンデルのオペラ活動は終止符を打ったのです…とならないのがヘンデルらしいところで、彼はアーヘンでの短期集中の温泉治療で肉体を回復すると、もう翌1738年の1月にはオペラに復帰するのです!いやはや!!!
 もっともこの後のオペラ活動は徐々にオラトリオとって変わられていきます。そして1742年の《メサイア》を転換点として、彼は完全に新たな道を切り開くことになります。

 さて、《ベレニーチェ》ですが、物語は「姉妹恋人取り合い」というところです。
 エジプトの女王ベレニーチェの元にローマの元老院からの大使ファビオがやってきて、ローマの貴族アレッサンドロと結婚するよう要求します。ベレニーチェは政治的理由と、さらにデメートリオを愛しているのでこれを断わるのですが、しかしデメートリオは実はベレニーチェの妹、セレーネと恋に落ちています。一方ベレニーチェはアレッサンドロがセレーネに求婚するのを妨げるため、妹にアルサーチェと結婚するよう仕向けます。ベレニーチェは妹と恋人の関係に気付き、デメートリオを監禁。とまあ混乱があった後、アルサーチェも二人の恋人を哀れに思いデメートリオを助けるよう嘆願、アレッサンドロは政治的理由でなく愛ゆえにベレニーチェに求婚、これにベレニーチェが心を動かされ、全ては丸く収まって幕となります。
 ドラマとしては良くできているほうですが、音楽はやはりちょっと気力が十分でないような気もします。
 しかしもちろんヘンデルはヘンデル、素晴らしいものちゃんとあります。例えば第3幕のChi t'intende?ではベレニーチェの自嘲気味の複雑な心理が見事に盛りこまれています。
(23 July 2000)

Baird,Fortunato,Lane,Matthews,Minter,McMaster,Opalach
Brewer Chamber Orchestra
Palmer
New York,November 1994
NERPORT CLASSIC NPD85620/3

 あまり高い水準の演奏ではありませんが、聞けるだけ感謝しなくてはならないでしょう。英語訛りのイタリア語がいささか気になります。




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