ヘンデルはドイツのハレで生まれましたが、青年期以降をロンドンで過ごし、イギリスに帰化までしています。ですから世界的にはゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルというよりジョージ・フリデリック・ハンデル(英語ですとア母音が濁りますので、実際にはヘンデルに近い発音になりますが)と呼ぶことの方が多いようです。
ヘンデルというと、日本では従来「メサイア」と「水上の音楽」、それに「王宮の花火の音楽」くらいしか認知がありませんでした。
これはヘンデルの評価を非常に象徴的にあらわしています。
実際にはロンドンにおけるヘンデルの活動は、そのかなりの部分がイタリア語のオペラと英語のオラトリオで占められていました。ですから管弦楽作品は決して彼の重要なジャンルというわけではありません。また「メサイア」にしても、物語性の強い彼の他の多くのオラトリオと比較すると著しく「静的」な曲で、いかに有名であるとはいえこの作品だけで彼を評価しようとすると誤解が生じそうな気がします。
つまり日本では、ヘンデルは誰でも名前を知っている作曲家でありながら、その真価はほとんど知られていなかったことになります。
ディスク紹介でも触れますので、ここではヘンデルのオペラ活動を年号抜きでごく簡単に追っていきたいと思います。
ヘンデルが最初にオペラを作ったのはハンブルクでした。しかし彼はその後イタリアに渡り、本場の最先端の音楽を学びます。その集大成とも言えるのがヴェネツィアで初演された「アグリッピーナ」でした。この作品は大成功を収めます。
留学後ヘンデルは活動の拠点を求めていくつかの都市を回ります。そのうちの一つであったロンドンで発表した「リナルド」が大評判となり、これがもとで彼はロンドンに定着するようになります。 「リナルド」に端を発するイタリア・オペラブームから貴族たちによってロイヤル・アカデミー・オヴ・ミュージックが設立され、ヘンデルはさらに精力的に活動することになります。様々な理由から一度アカデミーは破綻をきたしますが、ヘンデルはすぐに再建し活動を再開します。
しかしながら、もともとイタリア語が分からないロンドン市民をいつまでもブームの中に置くことは難しく、また政治抗争にも巻き込まれたこともあって、ついにアカデミーは完全に活動を中止してしまいます。
しかしまだヘンデルはあきらめません。彼は場所を移し、またもイタリアオペラの活動を再開するのです。いくつかの新機軸を打ち出したことで多少は盛り返しを見ますが、もはやブームの終焉は明らかで、ヘンデルはついにロンドンでの30年に渡るオペラの活動から撤退することになりました。
以上、ごく簡単にヘンデルのオペラ活動をたどってみました。しかし面白いのは、これだけ浮き沈みの激しい活動でありながら、作品そのものはその影響をさほど受けているとは思えず、どれも概ね高い水準にあるということです。
数え方にもよりますが、彼は概ね40ちょっとのオペラを書いています。その大半をロンドンで書いているのですから、いかに精力的な活動であったかうかがえます。
ロンドンは大英帝国の首都として繁栄を誇り、経済的には一級の都市でしたが、こと音楽に関する限りは大陸からするとかなり見劣りのする場所でした。ことにイタリア・オペラに関しては、ヘンデルがやってくるまでろくな上演がされていなかったと言って良いと思います。かといって自国語のオペラも十分には発展しておらず、ドイツの地方都市と比べてもかなり立ち遅れていたことは否めないでしょう。
むしろそうした状況がヘンデルとイタリア・オペラを熱烈に歓迎する土壌となっていたようです。市民の大半はイタリア語が分からなかったのですが、大掛かりな機械仕掛け、豪華な衣装に装飾、カストラートやプリマドンナの名技など、贅を尽くした最先端の舞台に夢中になった事は容易に想像がつきます。
結局のところロンドン子たちは、広い意味での文化の憧憬をイタリアに持っており、その憬れの国の最先端の音楽であれば、言葉の意味なぞわからなくても十分酔えてしまったのです(おや、一昔前の日本のアメリカンポップスのブームとそっくりですね)。
しかし「言葉が理解できない」という致命的な欠点はいかんともしがたいのですから、聴衆がイタリア語のオペラから徐々に離れてしまうのも当然の結果です(この点でも日本でのアメリカンポップス離れと同様です)。ヘンデルはやがてオペラを捨て、活動の中心を英語によるオラトリオに移動するようになります。
ヘンデルのオペラの大半は、ロンドンでの上演の後、ハンブルクのゲンゼマルクトを初めいくつかの大陸の劇場で取り上げられますが、しかしやがて忘却の彼方へ消えてしまいます。おそらく当時最後に上演されたヘンデルのオペラは1754年4月6日ロンドンの国王劇場での「アドメート」で、それ以降は今世紀まで上演の形跡はありません。
当時のオペラは、ちょうど今の映画のように、シーズン毎の新作が重要で、古い作品はいずれ消えて行くのは不思議ではありません。ロンドンに限れば、先に上げたような言葉の問題が当然背景にあります。 しかしヘンデルの他の音楽、オラトリオ等がそこそこ生き長らえたのに対し、オペラがほぼ完全に黙殺されてしまったのは、単にブームが去った等という次元の話ではありません。むしろ時代の必然だったと言えます。
ヘンデルがオペラを作曲したのは18世紀の前半ですが、これはイギリスにおいて政治の主導権が王権から議会に移っていく時期でもあったのです。最後のオペラ「デイダミア」(1741)が初演された翌年の1742年といえば 宰相ウォルポールが議会の不信任で辞任したことでイギリスにおける議会の優勢が決定的となった年です。つまりバロックオペラを支えていた「王制」の繁栄が終わりを告げていたのです。
こうした時代の変化に、王侯貴族の娯楽のために作られた豪華絢爛絵巻は徐々に取り残されていったのです。ヘンデルはイタリアの作曲家たちと違い、一切オペラ・ブッファを書かず、またセリアにコンメディアの要素を取り入れることもしなかったのですから、時代の変化をもろに受けてしまったわけです。
既にイタリアでは18世紀の後半に向かって「民衆も楽しめる」オペラ・ブッファが主流にのし上がりつつありました。これを受けてフランスでも1752年に有名な「ブフォン論争」が勃発し、やがてリュリ以来のルイ王朝のオペラは革命と共に消え去ります。イギリスは、もっと悲惨で、自国でのオペラ生産そのものが長い下火の時期に入ってしまいます。
王侯貴族のためのオペラが消えるにつれ歌唱様式そのものも変化し、バロックオペラの超絶的な技巧誇示歌唱は廃れていきます。ことにヘンデルのオペラを支えていたカストラート歌手が、啓蒙思想の影響もあり衰亡の一途をたどり、19世紀の始めにはオペラの世界から絶滅してしまったことがとどめを刺しました。
もうヘンデルのオペラが入り込む隙間はどこにもなかったのです。
今世紀に入って、ヘンデルのオペラは散発的に復活されます。しかしこれらはかなり改竄された形での上演だったようです。
戦後60年代頃までにはおおよそ楽譜が出揃います。この結果復活蘇演も盛んになります。しかしヘンデルの器楽作品やオラトリオの復活が比較的容易に進んだのに比べると、オペラの復活には時間がかかりました。ヘンデルのオペラの真価が広く認められるだけの優れたプロダクションが登場するのは、1980年代を待たなくてはなりませんでした。
復活を阻んだ最大の問題は、歌唱法でした。
当時とは発声法そのものも、歌の美学に対する考え方も全く違っているのですから、それに対応できる能力を持った歌手が登場しないと始まらないのです。一例を挙げれば、至難なコロラトゥーラのパッセージを楽々と処理できなくてはヘンデルのオペラの熱狂は出せないのです。もちろん、透明な響きの美しさや、純正なイタリア語の発音も問われます。さらにオペラですから、当然演技力表現力も必要となります。E・カークビィのように、他のバロック声楽曲の分野で名高い人でも、ヘンデルのオペラだと本領を出せないという例は多々あります。
しかしなによりも解決が困難なのは、カストラートの代用方です。
ヘンデルのオペラを支えたカストラートが絶滅してしまったことは前述の通りです。これを代用するのにまず考えられたのが、男性歌手に置き換えることでした。
これは役と歌手の性を一致させる上では有用な手のように思われました。しかし、例えば「ジューリオ・チェーザレ」のタイトルロールのように、本来アルト・カストラートの役をバリトンで代用すると、オクータヴ下で歌うことになるばかりか、カストラートのように広い音域をカヴァーできないので音符を変更せざるを得ないことになります。また当然音色も大きく変わりますから、役の性格や重唱でのバランスなど、あちこちに問題を生じることになります。なによりカストラート歌手が持っていたニュートラルな色気が男臭さに変わってしまうのでは、ヘンデルの意図と全く異なってしまいます。
70年代の後半から、カストラート役をカウンター・テナーで代用することが多くなりました。ルネ・ヤコ−プスやジェイムズ・ボウマンといった名歌手の登場でカウンター・テナーは「すっとんきょうな声の男性歌手」から脱し確固たる地位を築きあげます。
とはいえ、カストラートとカウンター・テナーがまるで違うタイプの声種であることには変わりありません。音色的にカウンター・テナー独自の魅力を作りあげることには成功しましたが、声帯を微妙に使うその発声は技術的な困難を伴い、コロラトゥーラの切れや低音域の処理など、多くの問題を抱えています。最近では本当に技術的改善が進み、びっくりするほど自然に歌うカウンター・テナーも多数登場していますが、それでもカストラートの完全な代わりになるとは思えません。
90年代に入ってからは、カウンター・テナーをうまく使う一方で、コントラルトをより活用する傾向にあります。
コントラルトはそもそもカストラートの衰退した19世紀始めに代用として男性役を歌わされた伝統があります(いわゆるズボン役です)。但しこれらはもともと女性を想定して書かれていますから、カストラート役を歌うとなるとまた別の問題が出ることも事実です。例えばコントラルトの「女性の色」がやはり男性役ではマッチしないことは否定できません。また作品によってはカストラート以外の男性歌手の役がない場合がありますから、その場合カウンターテナーを使わないと全員が女性で歌われることになります。そうなると声質のバランスが著しく偏ってしまいます。
しかしこの点に関しても、近年驚くほど男っぽい声のコントラルト(例えばエヴァ・ポドレスとかパトリシア・バードンなど)が登場し、違和感は大分少なくなっています。
コントラルトは技術面でカウンター・テナーよりはるかに優位に立つことは間違いありません。ことに広い音域とコロラトゥーラ技巧の安定度ではもっともカストラートに肉薄することでしょう。そういう意味では私は、主役はコントラルトの方が安心して聴けます。
おそらくカストラートの代用として完璧な方法は見つからないと思います。一律にどう置きかえるべきか、という原則をうちたてるのでなく、個々の作品の特徴を踏まえてバランスを考えて解決していくしかないと思います。
歌手についてばかり書きましたが、オーケストラにももちろん変化が必要でした。
厚ぼったい響きやロマンティシズムの残光から脱却し、バロック音楽の音楽の美しさを追求する運動は70年代から80年代にかけて大きく展開しました。しかしこの頃の演奏は、アーノンクールのように「違い」を極端に前面に出した不自然な表現か、ホグウッドやピノックのようなイギリス系の奏者たちの「お行儀の良い」もの、オランダ系の「お固い」演奏など、どれも今から見るとヘンデルのオペラとはすくなからず溝がありました。ヘンデルのオラトリオのパイオニアであったガーディナーもリヨンとイングリッシュ・バロック・ソロイスツの両方でヘンデルのオペラを度々取り上げていましたが、今一つオペラティックな熱狂に欠けていました。
際立った素晴らしい演奏とその録音が登場するのは80年代も末になってからのことです。ゲッティンゲンのヘンデル・フェスティヴァルを盛りたてたマッギガン、カウンター・テナー歌手としての多くの経験を生かしたヤコープス、ルイ王朝オペラの復活成功の勢いをヘンデルにもたらしたクリスティ、そして有り余る才能を注ぎ込むミンコフスキ。
彼らに共通しているのは、時代楽器演奏を実に自然にあやつり、ヘンデルのオペラの持つ「快楽」を実に気負いなく表現していることです。
しかし何よりもヘンデルのオペラが多大な努力を費やしてまで復活する原動力は、ヘンデルのオペラの持つ「快楽の美学」にあり、そして我々の時代もまたこうした快楽を求めているからに他ならないでしょう。
カストラートのオペラという、性区分を超越したあやふやな美が何か我々の時代に適合性を持っているのかもしれません。
ヘンデルのオペラの高度に様式化された独特の美学は、バロックを脱した次世代の人たちの嘲笑の対象となりました。モーツァルトは「ドン・ジョヴァンニ」に登場するドンナ・エルヴィーラの時代錯誤の大げさな立ち居振舞いを、ヘンデル調の音楽で揶揄しています。
確かにレチタティーヴォで筋がぎこちなく進んではアリアが延々と続くようなオペラでは、古典派以降の有機的なドラマを求める嗜好では否定されても仕方ないと思います。しばしば批判される通り、この様式ですとドラマはアリアのたびに一々停止しなければ行けませんし、アリアも基本的にある一つの感情しか表出しないので、ストーリーを重視して聞くとすぐ退屈してしまうでしょう。
しかしそれはあくまでオペラというものを音楽に裏打ちされた劇とみなす考えに基づいてのものです。そこから出発する限りヘンデルのオペラの美点は決して理解できないでしょう。
逆に言うとヘンデルのオペラの魅力はドラマの有機性にはないのです。
ではその価値は何かと問われれば、ずばり、≪歌の快楽≫に尽きます。次々と登場するスター歌手と多種多様の魅力的なアリアこそ生命力なのです。 乱暴なことを言ってしまえば、ストーリーはアリアにおいて歌う役がどのような感情状態にいるかを理解しやすくする手助でしかないのです。それくらい割りきって、ストーリーのある紅白歌合戦と思って聞けば、後はヘンデルという人物の類稀な卓越した技巧才能があなたを魅了することでしょう
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