VERDI 1840 |
初演:1840年9月5日、ミラノ、スカラ座
台本作家:アダルベルト・ギロヴェッツのオペラ「偽のスタニスラーオ」(1818年8月5日スカラ座で初演)へのフェリーチェ・ロマーニの台本に第三者が手を加えたもの。
原作:アレクサンドル・ヴァンサン・ピヌーデュヴァル「偽のスタニスラス」
「オベルト」の初演が成功だったことを受け、スカラ座の支配人バルトロメオ・メレッリから2年で3作のオペラを書くという契約を提示されます。ヴェルディがこれに飛びつかないはずもありません。
ところが、ヴェルディという人の頑固さはこの頃から顕著だったようで、メレッリから当初示された大ベテラン台本作家、ガエターノ・ロッシの台本(「追放者」)が気に入らず、そうこうしているうちにメレッリの気がかわり、今度はブッファの作曲を求めてきたのです。
ヴェルディは大いに難色を示したようですが、しかしもう選択の余地は残されていませんでした。契約を履行するためには、メレッリの求めに応じるしかなかったのです。
メレッリはヴェルディに、長らくスカラ座の代表的な台本作家であったフェリーチェ・ロマーニの古い台本をいくつか提示しました。そしてその中からヴェルディが渋々選んだのが、「偽のスタニズラーオ」でした。しかしこれはもう20年以上も前に作られた、全く流行遅れの台本だったのです。さらに言えばヴェルディが実際に曲をつけた台本は、ロマーニのオリジナルをかなり改竄して展開が分かりづらくなっていた、かなり粗悪なものだったのです。
それでも仕方なく、題名を「一日だけの王様」として作曲を開始したのです。
しかしこの後、ヴェルディには非常に過酷な運命が待ち構えていました。
「オベルト」の初演までにヴェルディが二人までも幼子を亡くしていたことは既に述べた通りです。
実はこの背景には、ヴェルディ一家の困窮がありました。まだ駆け出しの田舎出の若い作曲家に良い収入があるはずもありません。一家は常に貧しさの中にいたのです。子供たちが相次いで亡くなった原因は良くわかりませんが、少なくとも栄養状態が良いものではなかったことは間違いないでしょう。
そして悲劇が起きます。妻であり、故郷ブッセートでのヴェルディの強力な後援者であったアントーニオ・バレッツィの娘であるマルゲリータまでもが亡くなってしまったのです。1840年6月、初演まで後2ヶ月少しというところです。
ヴェルディが茫然自失となっていたのは容易に想像できます。恐らく契約の問題が片付かなければ、ヴェルディは作曲をやめ、故郷に帰って音楽教師として暮らしていったでしょう。
しかし彼には「一日だけの王様」を完成させる義務がありました。そしてなんとか完成はさせましたが、しかし初演は全くの不評。わずか一日でおろされてしまいました。
契約に縛られてのイヤイヤながらの作曲、相次ぐ家族の死、そして初演の失敗。
まさにヴェルディはどん底でした。
さて、このようにヴェルディの状況は最悪だったのですが、しかし残された音楽を純粋に判断するならば、これは不器用ではあるけれど、取るに足らないと言うようなものではありません。確かに注意力散漫なところはあるにせよ、確かな作曲技術のある人物がそれなりにブッファの伝統に則って作った、という程度のものにはなっています。
実際、ずっと時代が下がった1845年10月にはヴェネツィアで、翌1846年2月にはローマでも上演されています。今日でももう少し聞かれてもいい作品だと思います。
Norman,Cossotto,Carreras,Wixel
Royal Philharmonic Orchestra
Gardelli
21-30.August 1973
PHILIPS PHCP-5501/20(422 429-2)
豪華なキャストによる演奏ですが、むしろそれ故に私には大変不満の残る演奏です。
この「トロヴァトーレ」や「アイーダ」でも出来そうな重い声の歌手たちが歌い、ガルデッリのドラマティックな指揮で演奏されると、「一日だけの王様」がまるで力不足の失敗作に聞こえてしまうのです。
この作品は、もっとドニゼッティのブッファを演奏する時のような軽い声と様式でないと、本当の魅力が発揮できないのではないでしょうか。そうした路線の演奏の録音が望まれます。
初演:1840年10月17日,ミラノ,スカラ座
ヴェルディは《一日だけの王様》の失敗を補う形で《オベルト》を再演した際、いくつか手直しをしています。
《サン・ボニファーチョ伯爵オベルト》
《サン・ボニファーチョ伯爵オベルト》 ジェノヴァ,カルロ・フェニーチェ劇場,1841年1月
Ramey,Guleghina,Urmana,Neil
Academy of St Martin in the Fiels
Marriner
London,August 1996
PHILIPS 454 472-2
1834-1836 | 1839 | 1840 | 1841 | 1842 |
1843 | 1844 | 1845 | 1846 | 1847 |
1848 | 1849 | 1850 | 1851 | 1853 |
1854 | 1855 | 1857 | 1858 | 1859 |
1862 | 1865 | 1866 | 1867 | 1869 |
1871 | 1872 | 1881 | 1884 | 1886 |
1887 | 1893 | 1894 |
Un giorno di regnoのregnoは王国の意味なので、《王国の一日》という訳も見かけますが、舞台が王国(ポーランド)ではなくフランスなのであまりピッタリしていません。regnoには王権とか王の治世という意味もあり(英訳でもA day in the reignとなっています)、《(偽の)王が執政したある一日》といった意味になります。しかしこう訳するわけにもいきませんので、現在では意訳ながら《一日だけの王様》とすることが多くなっています。