VERDI 1834-1836 |
初演:未上演
台本:アントーニオ・ピアッツァ
原作:
ヴェルディの最初のオペラは通常《オベルト》とされています。しかしヴェルディはそれより前、ミラノでの修行期に《ロチェステル》という作品を完成ないしはそれに近い状態にまで作り上げているはずです。
このミラノでの修行期の情報は、僅かな当時の手紙の他には、ずっと後年になってからのヴェルディ自身による回想からしか得られず、不明な点が多々残っています。
1832年6月、18歳のヴェルディは、パルマ近郊の故郷ブッセートを発ち、ミラノへと向かいます。しかし一番の目的であったミラノ音楽院には、年齢制限などの理由で入学できませんでした。そこでヴェルディは、ナポリ出身でスカラ座のマエストロ・アル・チェンバロを務めたヴィンチェンツォ・ラヴィーニャのもとで個人的に音楽を学ぶことになりました。
1834年、ヴェルディはラヴィーニャから、ミラノの優秀なアマチュア合唱団、ソチエタ・フィラルモニカに引き合わされました。ハイドンの《天地創造》のような大規模な声楽作品の下準備を引受けたヴェルディは、その能力を高く評価されました。
そして、この団体の指導者であるピエトロ・マッシーニが、才能豊かなヴェルディ青年に、ソチエタ・フィラルモニカのためにオペラを作曲するようを依頼したのです。
1836年、ヴェルディはミラノでの修行を終え、春には故郷ブッセートに戻り市の音楽教師に就任します。5月には、マルガリータ・バレッツィ(当時のヴェルディ最大の支援者であるアントーニオ・バレッツィの娘)と結婚。全ては順調でした。
その一方で、ヴェルディはオペラ上演を諦めてはいませんでした。1836年9月にマッシーニに宛てた手紙で、オペラはほぼ完成したと報告しています。この手紙によると、題名は《ロチェステル》で、台本作家としてミラノのジャーナリスト、アントーニオ・ピアッツァの名前が挙がっています。
結婚し故郷で定職を得るという、一般的には幸せな人生を歩んでいるように思えたヴェルディ、しかし志の高いヴェルディにとって、地方小都市に束縛される生活は窮屈なものだったであろうことは容易に想像がつきます。ミラノでオペラを上演するためには、少なくとも一ヶ月以上は上演指導のため劇場入りする必要がありますが、そこまで長い休暇を取ることは不可能でした。
さらに運の悪いことに、マッシーニはソチエタ・フィラルモニカから離れてしまい、恩師ラヴィーニャは1836年9月に亡くなってしまいました。ヴェルディはミラノでの有力な後ろ盾を失ってしまったのです。ヴェルディは諦めず1837年10月にはパルマで《ロチェステル》を上演しようと目論見ましたが、実現には至りませんでした。
その後、《ロチェステル》がどうなったかは不明です。
今日では、この作品が大きく改変され、設定も一新されて《オベルト》に生まれ変わったのではないか、と推測されています。この点については《オベルト》の項で説明いたします。
ところで、《ロチェステル》はどういう話だったのでしょうか。
もし本当に《オベルト》が《ロチェステル》の大幅改作だったならば、様々な相違はあれども、おそらく物語の大筋は同じでしょう。
また、ヴェルディは、1871年に書いた手紙で、ピアッツァの書いた台本の題名を《アミルトン卿(ハミルトン卿) Lord Hamilton》としています。おそらく作曲から30年以上経って、ヴェルディが主役の一人の名前を題名と勘違いしたのではないか、と推測されています。ロチェステル、アミルトンの名前からするに、イングランドかスコットランドあたりを舞台にした物語だったのではないでしょうか。
いずれにしても真相は、ピアッツァの台本などの有力な資料が発見されない限り、謎のままです。
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