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Rossini 1827



MOÏSE ET PHARAON

初演:1827年3月26日、パリ、オペラ座
台本:ルイージ・バロッキとエティエンヌ・ドゥ・ジュイがトットラの《エジプトのモゼ》の台本を翻訳、大幅に改作

 《モイーズとファラオン》は、《コリントの包囲》に続いてオペラ座で上演された作品です。《エジプトのモゼ》の改作であるこの作品は、ロッシーニがナポリからパリへと活動の拠点を移したことを考える時に重要な位置にあります。


※ 旧約聖書の『出エジプト記』などに登場する古代イスラエルの指導者の名の日本語表記について。聖書や歴史関係の文章では「モーセ」で定着しているにもかかわらず、映画などでは広く「モーゼ」と呼ばれています。ロッシーニのオペラの場合、「モーゼ」と呼ばれることがほとんどで、基本であるはずの「モーセ」で呼ばれることはあまりありません。
 オペラ御殿では、登場人物名はオペラの言語での読みを基本としています。ここでは、区別が容易であるという理由で、聖書などオペラ以外については「モーセ」、イタリア語のオペラ Mosè in egitto については Mosè(seにアクセント)を「モゼ」、フランス語のオペラ Moïse et Pharaon については Moïse を「モイーズ」、と別々の読みにしています。


《エジプトのモゼ》のパリ上演

 ナポリの《エジプトのモゼ》からパリでの《モイーズとファラオン》に至る過程で重要な役割を果たすのが、《エジプトのモゼ》のパリ上演です。この点については、1997年のペーザロのロッシーニフェスティヴァルでの冊子に寄せられたエリザベス・バートレトの『《モイーズ》のパリ初演とその背景』に詳しく書いてあるので、それを参照にして簡単に説明します。

 1818年3月5日にナポリのサンカルロ劇場で初演された《エジプトのモゼ》は、翌1819年に改訂され(3月7日に上演)てから爆発的な評判となり、イタリアのみならず各都市で上演される人気作となって行ました。
 1821年の春、パリのオペラ座とイタリア劇場の責任者であったジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティは、若い作曲家エロール(Louis Joseph Ferdinand Hérold 1791-1833 《ザンパ》で有名な作曲家です)を歌手探しのためにイタリアに派遣させます。その旅路、フィレンツェでエロールはロッシーニの《エジプトのモゼ》を観て大変に感動したのです。エロールはさらにナポリに向かい、ロッシーニと面会しています。彼はヴィオッティに、《エジプトのモゼ》がフランスオペラに適していることを報告(1821年4月26日付の手紙)、さらにスコアの写しと、パリ向けに《エジプトのモゼ》を手直ししたいというロッシーニの手紙をパリに携えて帰っています。残念ながらこの計画は頓挫したもようです。
 しかし、エロールの報告がパリで広まったことが後押ししたらしく、翌1822年10月20日に《エジプトのモゼ》はオペラ座でのジュディッタ・パスタの慈善特別興行としてお披露目され、さらに10月22日からは場所をイタリア劇場(注1)に移して上演が行なわれました(モゼ役はニコラ=プロスペル・ルヴァッスール、プリマドンナのエルチアは当然パスタ)。ロッシーニの音楽は大変良い評判をとっていました。
 《モイーズとファラオン》が上演されるずっと前に、《エジプトのモゼ》がパリで既によく知られていたということは注意しておく必要があるでしょう。原作である《マオメット2世》が全く知られていなかった《コリントの包囲》とはかなり事情が異なるのです。改作がもとの作品より劣ってしまうようでは、かえって悪い評判になりかねないわけです。


《モイーズとファラオン》の成立

 1824年にパリに腰を据えイタリア劇場の責任者を務めていたロッシーニが、初めてオペラ座向けに発表した新作、《コリントの包囲》(1826年10月9日初演)が大変な成功を収め、これによって同じ月の17日にロッシーニは「国王の作曲家、および声楽の総監査人 Compsiteur du Roi et Inspecteur Géneral du Chant」という、仰々しい名誉職を与えられます。金銭的な見返りは乏しいものとはいえ、これによってパリにおけるロッシーニの地位は公的にも一段高いものになりました。
 翌1827年1月初頭、オペラ座では四旬節(注2)のシーズンの新作が検討され始めました。芸術省監督ルイ・フランソワ・ソステーヌ(ロシュフコー子爵)は、《エジプトのモゼ》のオペラ座向け改作を希望しますが、しかし準備期間が短いことを理由にロッシーニは難色を示します。1月13日に諸々の責任者達と会合が開かれ、ロッシーニも彼の熱心な擁護者であるロシュフコー子爵のたっての希望ということで承諾。ロッシーニは大急ぎで作曲にあたり、舞台などもオペラ座の総力を挙げて準備にかかります。

 作業が煮詰まっていく中、ロッシーニに辛い知らせが届きます。母アンナの容体が極めて悪いというのです。ロッシーニはすぐにでもボローニャに旅立ちたかったのですが、上演を目前にして仕事を放り出すわけにも行きませんでした。そしてリハーサルが進む頃、20日にアンナが亡くなったという知らせがその数日後にロッシーニのもとに届きます。母を全面的に愛し信頼していたロッシーニの悲嘆がどれほどのものだったか、察せられます。この後ロッシーニはかなり精神的に不安定だったことが伝えられています。


 聖書の出エジプト記などに見られるモーセの姿については、《エジプトのモゼ》で扱う予定です。


あらすじ

第1幕
 メンフィスの城壁外。ヘブライ人たちが祖国に帰れるよう神に祈っている。モイーズが現れ、民衆にもっと神を信じるよう戒め、希望を持つように諭す。モイーズがファラオンに遣わせた兄エリエゼルが戻ってくる。彼はファラオンに要求を突き付けたが、大神官オジリドに激しく反対された。しかし王妃シナイードが彼らを擁護し、ファラオンを説き伏せたので、ファラオンはヘブライ人を解放することを約束する。モイーズの妹マリーは、エジプトの神を崇拝することを拒絶したために死を宣告されていたが、釈放され、ファラオンの息子アメノフィスの心を射止めた娘アナイの功を称える。空に虹がかかる。隕石が茂みに火を点け、神秘の声がモイーズに法典を受け取るよう呼びかける。声はさらに、ヘブライ人たちが神に忠実であれば勝利すると告げる。モイーズは十戒の石盤を持ち返る。アメノフィスが現れ、アナイに、愛を誓ったのに去ってしまうのかと詰め寄る。アナイは、心から彼を愛しているが、運命には従わなくてはならないと別れを告げる。遠くから出発の準備をするヘブライ人の音が聞こえ、彼女は去る。絶望したアメノフィスは、モイーズたちの出発を阻止することにする。ヘブライ人たちが神を讃えて歌っている。その中で一人アナイだけが悲しみ、マリーが慰めている。アメノフィスが、ファラオンが解放を取り消したと告げる。騒ぎを聞きつけて現れたファラオンに、モイーズは、神の怒りを買うぞと警告し、祈る。突然、空が闇に包まれ、エジプト人たちは慄く。

第2幕
 メンフィスの王宮。エジプト人たちは暗闇の恐怖に怯えている。ファラオンはモイーズを呼び、太陽を戻せばヘブライ人を自由にしようと約束する。モイーズが神に祈ると、すぐさま光が戻る。ファラオンは、約束通り、ヘブライ人は今晩出発してよいと宣言するが、アメノフィスは父の命に反対する。アメノフィスは、父が自分とシリアの王女との婚約を決めたことに驚くが、アナイとの恋を父に打明けられず、悩む。彼の心を知る母シナイードが慰める。アメノフィスは、嘆きつつも、母と共に祝祭の会場へと向う。

第3幕
 イシスの神殿。祝祭が行なわれている。モイーズが現れ、約束の履行をファラオンに要求する。ファラオンは、約束は守ると言うが、大神官オジリドは、出発の前にイシスの神に跪くよう求める。モイーズはこれを拒否する。怒った神官たちは、ヘブライ人たちの処罰を求める。そこに、ナイル川が真っ赤に染まり、害虫の大群が渦巻き、砂嵐が襲いかかっているなどの不吉な報がもたらされる。エジプト人たちの間で、罰するか許すかで意見が別れる。そこへさらに、モイーズが手を差し出すと祭壇の火が消えるといった災いの予兆が示される。モイーズの約束と神官たちの要求に挟まれたファラオンは、ヘブライ人たちを鎖につないで城壁の外に出すという妥協策を講じる。一方、アメノフィスは、強引にアナイを連れ去る。

第4幕
 紅海近くの砂漠。アメノフィスはアナイを砂漠に連れて行く。彼女の愛を得られるならば、ヘブライ人たちを自由にしようというのである。モイーズは、あくまでアナイ自身が選ぶことだと返答する。悩んだ末、アナイは自分たちの神に従うことを決める。アメノフィスは激怒し、既にファラオンの軍勢が近づいていると脅す。ヘブライ人たちは動揺する。しかしモイーズは、神を信じるように彼らに命じ、紅海へと向かう。紅海の海岸。モイーズとヘブライ人たちは神に祈る。すると彼らの鎖が外れる。遠くにエジプトの軍勢が見えるが、モイーズは海の上を歩き出し、民が後に続く。ファラオンとエジプトの軍勢が到着し、ヘブライ人たちを追いかけるが、突然激しい嵐が起こり、彼らは波に飲まれてしまう。


《エジプトのモゼ》および他の作品からの転用

 個々の音楽を検討する前に、まずは《モイーズとファラオン》と、その元となった《エジプトのモゼ》および他の作品からとの関係を簡単に見てみましょう。


《モイーズとファラオン》 転用関係一覧
Ouverture新たに作曲
ACTE 1 N.1 IntroductionAllegroの音楽はArmida N.2 Coro di Paladini (Atto 1)からの転用
Quatuor et Chœur新たに作曲
Récitatif
N.2ChœurArmida N.12 Coro di Ninfe (Atto 2)から転用
Récitatif
Scène
N.3 DuoMosè in Egitto N.3 Duetto Elicia e Osiride (Atto 1)から転用
Récitatif
N.4Marche et ChœurMosè in Egitto N.5 Finale I (Atto 1)から転用
N.5Duo
N.6Final
ACTE 2 N.7 IntroductionMosè in Egitt N.1 Introduzione (Atto 1)から転用
Récitatif
N.8 Invocation et QuintettoMosè in Egitto N.2 Invocazione (Atto 1)から転用
Récitatif
N.9DuoMosè in Egitto N.6 Duetto Osiride e Faraone (Atto 2)から転用
Récitatif
10Air et ChœurMosè in Egitto N.10 Coro, Recitativo e Aria Elicia (Atto 2)から、アリアの中間部分を転用
その他は新作
ACTE 3 N.11 Marche et ChœurBianca e Falliero N.2 Coro (Atto 1) から転用
Récitatif
1er Air de Danse新たに作曲
2e Air de DanseAdagioの部分は、Armida Ballo (Atto 2)のAndanteの一部を転用
3e Air de Danse(Chasse)新たに作曲
N.12FinalAndantino (Je tremble et soupire) の部分は Mosè in Egitto N.8 Scena e Quartetto (Atto 2)のMi manca la voceから転用
他は新たに作曲
ACTE 4 N.13 Entr'acteMosè in Egitto N.8 Scena e Quartetto(Atto 2)の冒頭部分から転用
Récitatif et DuoMosè in Egitto N.8 Scena e Quartetto (Atto 2)からエルチアとオジリデの場面(Duettino Elicia e Osiride)を転用
Récitatif
N.14 Air et Chœur新たに作曲
Récitatif
MarcheMosè in Egitto N.5 Finale I (Atto 1)から転用
(N.4と同じ素材)
Récitatif
N.15Prière et ChœurMosè in Egitto N.11 Preghiera e Finale III(Atto 3)のDal tuo stellato soglioから転用
N.16Scène et OrageMosè in Egitto N.11 (Atto 3)の最後の場面を手直しして転用。ただし結尾は全く別物。
N.17Cantique新たに作曲

 レシタティフやセヌ(セーヌ,情景)は基本的に全て新たに作られています。


 《モイーズとファラオン》の大半の曲が《エジプトのモゼ》から転用されていることが分かります。もっともその配列はバラバラで、例えば《エジプトのモゼ》の第1幕は二つに分けられ、前半が《モイーズとファラオン》の第2幕冒頭、後半が第1幕フィナーレと、逆にされて置かれています。  また《モイーズとファラオン》以外に、《アルミーダ》や《ビアンカとファッリエーロ》からの転用も見られます。

 《エジプトのモゼ》の曲のうち、アリアは基本的に《モイーズとファラオン》には採用されていません。第1幕のファラオーネのアリア(N.4)、第2幕のアマルテアのアリア(ただしこれは初演からしばらくして既に外されていたようです)、モゼのアリア(N.9)といったように、イタリアオペラの様式が濃いアリアはことごとく外されています。
 パリのフランス人歌手の中にはイタリアの名歌手とは技術的に大きな差がある人もいるのですが、この《モイーズとファラオン》に関してはかなり優秀な歌手が揃えられており、イタリア様式のアリアに対応できなかったとはあまり考えられないので、これはやはりパリのオペラ座の趣味にあわせた結果でしょう。
 唯一採用されたエルチアのアリアも、対応する役であるアナイではなく、セコンダドンナであるシナイーデに与えられています。また、転用されたのは主としてAndante maestosoの部分だけで、前後は著しく改編ないしは完全に新たに書き直しています。


音楽

 《モイーズとファラオン》の音楽の構成は次のようになっています。
《モイーズとファラオン》の音楽設計一覧図

 《モイーズとファラオン》で新たに作曲されたのは、序曲、N.1の大半、第3幕のバレの大半、同じ幕のフィナーレのほとんど、第4幕、N.14のアナイのアリア、紅海横断後のオーケストラの音楽の最後の部分、そして幕切れのカンティク、といったあたりです。

 第4幕のアナイのアリアは非常に充実したものです。全体は大きく二部からできています。第一部はロ短調。冒頭部分は短いセーヌのようになっており、ここに用いられる十六分音符の不安げな動きが、アリアでのアナイの悩みを表す上下にせわしなく動く伴奏音形へと展開していきます。第一部でのアナイの歌は総じて中音域を多用した力強い表現が求められるものです。途中でト長調に転じ、後半はモイーゼたちの描写になりアナイはあまり歌いません。中間部でアナイが神を選ぶと決心すると、第二部はホ長調に移ります。この部分は前半後半それぞれにAllegro moderato-Allegroという速度アップのパターンが用いられており、Allegroでは他の役や合唱も絡んで華やかです。アナイの歌はコロラトゥーラの技巧を発揮できる輝かしいものです。
 ロッシーニはイタリア時代には急−緩−急という三部形式のアリアを好んで用いていましたが、このアリアでは構成的にも雰囲気もかなり異なっています。

 第3幕のフィナール(N.12)は、音楽的に実に充実しています。上記のように《エジプトのモゼ》でもとりわけ美しい曲であるMi manca la voceを真ん中に置いているとはいえ、その前後の音楽の雄弁さ、作曲技法の鮮やかには唖然とさせられます。とりわけ、荒れ狂うような豪快な伴奏音形は、ヴァイオリンの切込みと半音階の上昇音形が非常に効果的で、蝗の大群が襲いかかってくるような不気味さ(しかし何か明るさがある!)があります。コンチェルタートでもロッシーニの筆は冴えわたっており、ソリスト群と合唱の絡みが見事に連動して圧倒的な盛上がりを作っています。これはパリの聴衆を興奮させたでしょうし、また後の作曲家に与えた影響も大でしょう。

 第1幕の導入(N.1)では、パリのグランドオペラではおなじみの、無伴奏でソリストと合唱が歌う部分があり(Quatuor)、ここも大変美しい場面です。

 もう一つ、忘れてはならないのが、全曲を締め括るカンティク(頌詩)です。紅海を渡り切ったヘブライの人々が神を讃美するこの部分、ドラマとして必要性が高く、また音楽的にもハープの伴奏に乗った穏やかな喜び広がる美しいものであるにも関わらず、なぜか初演前もしくは初演直後にカットされてしまいました。上演前に準備されたごく初期のヴォーカルスコアを除くと全く収録されないままで、1997年のペーザロでのロッシーニフェスティヴァルの上演までほとんど知られていないものでした。
 カットされてしまった原因は良く分かっていませんが、やはりパリのオペラ座での好みなのでしょう。翌1828年に初演された、オーベールの高名な《ポルティチのもの言わぬ娘》など、当時のパリのグランドオペラでは、強烈で短いカタストロフィで幕となることが好まれており、カンティクはそれに反するものだったわけです。しかしロッシーニはこの流儀を捨てることなく、《ギョーム・テル》で再度、より壮麗な形で深々と感動が広がる幕切れを作り上げています。
 初演前後にカットされたのですから、カンティクの前で幕を閉じることもロッシーニによって認められた形態です。しかし、もし当初からカンティクがない状態でロッシーニが作曲したら、幕切れはもう少し違った形になっていたように思われます。調性の点でも、カンティクの前で終らせるとハ長調で終止することになり、オペラの冒頭からは大分遠い調性で不安定なままです。カンティクのヘ長調は導入部の調性(へ長調、これは序曲の同主調の並行調)と一致していて、合理性があります。そして何より、音楽的にカンティクによる幕切れのほうがより感動的だと思います。

 こうした充実した新作曲の中にあっても、《エジプトのモゼ》から転用した曲はやはり充実しています。

 なにより、1819年の改訂で加えられた有名な祈り(N.15 Des cieux où tu résides)が最大の見所であることには変わりありません。深く感動を湛えながらじわじわと盛りあがりをみせる、ロッシーニのあらゆる曲の中でも屈指の傑作です。
 これに続く紅海横断とエジプトの軍勢が紅海に沈む音楽では、ロッシーニの管弦楽表現の緻密な作力が見事に発揮されています。

 アメノフィスのからむ二つの大きな二重唱はどちらも名曲です。
 第1幕のSi je perds celle que j'aimeは急−緩−急の三部形式で、イタリアオペラらしい旋律の美しさ滑らかさがたっぷり残っています。
 第2幕の Momnt fatal! は、一応二部構成ですが、全体に調も速度もあまり変化がなく、アナイを失ってしまうかもしれないアメノフィスの苦悩が前面に出ています。後半の Oh Ciel! que mon martyre にはBナチュナルが頻発し、ヴァリアンテで高いDまで上げられることもしばしばです。

 この他、第1幕フィナールや第2幕の導入など、アンサンブル場面の雄弁さはパリのグランドオペラの中でも存在感が十分あります。


 改作の結果は《コリントの包囲》よりも良いと思われます。おそらくロッシーニは、《コリントの包囲》を経験したことで、より確実にグランドオペラと、自分がイタリア時代に育んだ作風を適合させる手法を得たのでしょう。


創唱者たち

初演に出演した主な歌手たちは以下の通りです。

MoïseNicolas-Prosper LevasseurBasse
PharaonBernard-Henri DabadieBasse
AménophisAdolphe NourritTénor
AnaïLaure Cinthie-DamoreuxSoprano
MarieRosalie MoriMezzo soprano
SinaïdeLouis-Zulmé LerouxSoprano
EliézerAlexis DupontTénor
OsirideLouis-Barthélemy-Pascal BonelBasse
AufideFerdinad PrévostBasse
Une voix misérieusetLouis-Barthélemy-Pascal BonelBasse

 ニコラ=プロスペル・ルヴァッスール(1791-1874)は、当時のパリの名バス。既にイタリア劇場で多くのロッシーニのオペラで歌っており(《ランスへの旅》でのドン・アルヴァーロを創唱)、それからオペラ座に出演するようになりました。《オリイ伯爵》での家庭教師、《ギョーム・テル》のウァルテルを創唱、さらにマイヤベーアの《悪魔ロベール》、《ユグノ》、アレヴィの《ユダヤの女》、ドニゼッティの《王の愛妾》など、多くの作品の初演に出演しています。

 ベルナール=アンリ・ダヴァディエ(1797-1853)も当時のパリの代表的フランス人バリトン。ロッシーニ作品では《オリイ伯爵》のランボー、そしてなにより《ギョーム・テル》のテルは彼のために書かれた役です。1831年にオペラ座でオーベールの《惚れ薬》のジョリクールを創唱、その翌年にはミラノでその翻案であるドニゼッティの《愛の妙薬》で相当する役のベルコーレを創唱しています。

 アドルフ・ヌリ(1802-1839)は、言わずと知れたパリの大テノール。アメノフィス以外にも、《コリントの包囲》のネオクレス、《オリイ伯爵》のタイトルロール、《ギョーム・テル》のアルノールを創唱、さらにオーベールの《ポルティシのもの言わぬ娘》のマサニエッロ、マイヤベーアの《悪魔ロベール》のロベール、《ユグノ》のラウールも彼が創唱した役です。しかしジルベール・ルイ・デュプレにオペラ座でのスターの座を奪われ、ナポリで自殺しています。

 ロール・サンティ・ダモロー(1801-1863)、もしくはイタリア風にラウラ・チンティ・ダモロー Laura Cinti Damoreauは、イタリア劇場で脇役を歌っていたところをロッシーニに見出され、《ランスへの旅》でフォルヴィル伯爵夫人に大抜擢されました。《モイーズとファラオン》でオペラ座に登場、《オリイ伯爵》の伯爵夫人、《ギョーム・テル》のマティルデを創唱しています。イタリアオペラの技術でフランスオペラを歌えたという点で画期的なソプラノだったといわれます。

 出演者達のうち、ルヴァッスールとサンティは1822年の《エジプトのモゼ》にも出演していました(ただしサンティはセコンダドンナのアマルテア役)。特にルヴァッスールは、イタリア語の《エジプトのモゼ》とフランス語の《モイーズとファラオン》を直接つなぐ人物として重要な役割を果たしたわけです。


初演とその後

 1827年3月26日の初演は圧倒的な大成功で、批評は絶賛一色、劇場は満員。四旬節向けの作品にもかかわらず秋のシーズンまで上演が断続的に続き、1827年だけで32回の上演されました。もっとも、その後はペースが落ち、翌1828年は10回、1829年には3回、1830年に7回、そして1832年までに計60回の上演を向えています。その後も時折取り上げられています。


 ロッシーニは、《モイーズとファラオン》でパリのグランドオペラの手法を自分のものにしたばかりでなく、さらに大胆に音楽へと踏み込むことに成功しました。そしてその成果は、パリ向けのオリジナルの《ギョーム・テル》でさらに大きく開花することになります。


(注1)
当時のイタリア劇場の拠点はファヴァール劇場。“イタリア劇場”と言う場合でも、特定の建物を指しているわけではないのでご注意下さい。

(注2)
四旬節とは、灰の水曜日から復活祭前の40日強の期間で、概ね3月頃(復活祭がいつになるかによってだいぶ前後します)。当時はイタリアの一部ではオペラの上演が禁止されていたり(代りにオラトリオが上演されたりします)、上演されても宗教的題材であることが求められていたりしました。

付録 《エジプトのモゼ》、《モイーズとファラオン》、《モゼとファラオーネ》 人名対照表



Mosè in egitto

エジプトのモゼ
Moïse et Pharaon

モイーズとファラオン
Mosè e Faraone
(Mosè)

モゼとファラオーネ
(モゼ)
Mosè
モゼ
Moïse
モイーズ
Mosè
モゼ
Faraone
ファラオーネ
Pharaon
ファラオン
Faraone
ファラオーネ
Elcia
エルチア
Anaï
アナイ
Anaide
アナイデ
Osiride
オジリデ
Aménophis
アメノフィス
Amènofi
アメーノフィ
Amaltea
アマルテア
Sinaïde
シナイード
Sinaide
シナイーデ
Aronne
アロンネ
Eliézer
エリエゼル
Elisero
エリゼーロ
Amenosi
アメノージ
Marie
マリー
Maria
マリーア
Mambre
マンブレ
Osiride
オジリド
Osiride
オジリデ

関連項目

《エジプトのモゼ》 (初演稿)
《エジプトのモゼ》 1820年3月,ナポリ,サンカルロ劇場
《モイーズとファラオン》


参考文献

Bruno Cagli: Tra cielo e terra, ROSSINI OPERA FESTIVAL 1997
M.Eilzaeth C. Bartlet: La prima parigina di Moïse (26 marzo 1827) e il suo contesto, ROSSINI OPERA FESTIVAL 1997
Philipp Gossett: Introduction from the reprint score of Moïse, Garland, 1980
Eduardo Rescigno: Dizionario Rossiniano, Biblioteca Unicersale Rizzoli, 2002
小畑恒夫:《ランスへの旅》初演の名歌手たち 日本ロッシーニ協会 公演パンフレット 2002

Ildar Abdrazakov, Erwin Schrott, Giuseppe Filianoti, Tomislav Mužek, Giorgio Giuseppini, Antonello Ceron, Sonia Ganassi, Barbara Frittoli, Nino Surguladze, Maurizio Muraro
Luciana Savignano, Roberto Bolle, Desmond Richardson
Orchestra e Coro del Teatro alla Scala
Riccardo Muti
Luca Ronconi
Milano, 21 December 2003
DYNAMIC TDK CORE TDBA-0122 (Japanese domestic)

ELECTA
ISBN 88-370-3200-5
EAN 9788837032005

スカラ座での上演のライヴ収録。ただし会場はアルチンボルディ劇場。賛歌 Chantons, bénisson le Seigneur! は含まれていません。
ELECTAの冊子には、本と、全曲を収録したCD3枚、DVD(テレビ番組、《モイーズとファラオン》の抜粋、などを収録)が収められています。

Michele Pertusi, Eldar Aliev, Charles Workman, Luigi Petroni, Riccardo Ferrari, Cesare Catani, Mariana Pentcheva, Elizabeth Norberg-Schulz, Enkelejda Shkosa
Coro da Camera di Praga, Orchestra del Teatro Comunale di Bologna
Wladimir Jurowski
Pesaro,9,13,17 & 21 August 1997
ROSSINI OPERA FESTIVAL

ROFの上演でのライヴ録音。
ペルトゥージのモイーズが大変見事。ワークマンも難役アメノフィスを見事にこなしています。アナイ役のノルベリ=シュルツは技術的にもう一歩。
グレアム・ヴィックの演出が、パラフェスティヴァルの平土間(=体育館の床面)まで全て舞台に使った大掛かりなものだったため、収録の制約が大きく、録音状態はあまり良くありません。
この条件で、ユロフスキはアンサンブルをまとめるのにだいぶ苦労したようです。しかし意欲的な表現は十分。もう少しフランスオペラらしい洗練さが惜しいところ。


MOSÈ

初演:1827年12月、ローマ、アッカデミア・フィラールモニカ・ロマーナ(演奏会形式上演)
   舞台上演は1829年2月4日、ペルージャ
台本:ルイージ・バロッキ、エティエンヌ・ジュイの台本をカリスト・バッシが伊訳

補遺2 《モゼ》へ。


L'ASSEDIO DI CORINTO

初演:1827年12月27日、ローマ、フィラルモーニカ・ロマーナ(演奏会形式)
舞台初演は1828年1月26日、パルマ
台本:ルイージ・バロッキとアレクサンドル・スーメの台本をカリスト・バッシが伊訳、改編

補遺2 《コリントの包囲》へ。




1806 1810 1811 1812-1 1812-2
1812-3 1813-1 1813-2 1813-3 1814
1815-1 1815-2 1816-1 1816-2 1817-1
1817-2 1818 1819-1 1819-2 1820
1821 1822 1823 1825 1826
1827 1828 1829 appendix


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