LA DONNA DEL LAGO
Paris, Théâtre Italien, septembre 1824
初演:1824年9月7日、パリ、イタリア劇場(ペルティエ劇場 La salle Le Peletier)
《湖の女》 パリ初演
《湖の女》は、パリでは1824年9月7日に初演されました。上演はイタリア劇場 Théâtre Italien でしたが、劇場は、当時のイタリア劇場の本拠であったルーヴォワ劇場 Salle de Louvois(1820年までオペラ座として使用された劇場)ではなく、オペラ座(当時はペルティエ劇場 La salle Le Peletier)でした。ただし、その後の続演ではルーヴォワ劇場に戻っています。
ロッシーニは1824年8月1日にパリを訪れます。彼にとっては二度目のパリ訪問(註)でした。ロッシーニはこの30年後の1855年に完全にパリに落ち着くことになりますが、それまではパリとイタリアを頻繁に往復する生活を続けます。したがって、パリに「腰を据えた」というわけではありませんが、それでもこの訪問からしばらくの間、パリはロッシーニの拠点となり、イタリア劇場でのオペラ上演に精力的に関わることになります。
ロッシーニが練習の監督を行って上演された最初のオペラは、《湖の女》でした。
Elena | Ester Mombelli | soprano |
Giacomo | Marco Boldogni | tenore |
Malcolm Groeme | Adelaide Schiassetti | contralto |
Rodrigo di Dhu | Luigi Mari | tenore |
Douglas d'Angus | Nicolas-Prosper Levasseur | basso |
エステル・モンベッリ(1794−1860頃)は、イタリアのソプラノ。父ドメニコ・モンベッリ(1751−1835)と母ヴィチェンツィーナ・ヴィガノ・モンベッリは、少年時代のロッシーニと親しく、《デメトリオとポリビオ》を書かせて後に初演したことで知られています。イタリアでは主としてブッファのソプラノとして活動しました。1818年5月18日にヴェネツィアで初演されたロッシーニのカンタータ《ディドーネの死》で歌っています。1824年にパリに初登場。1825年6月19日の《ランスへの旅》初演でコルテーゼ夫人を歌っています。
アデライデ・スキアッセッティ(1802−?)は、おそらくイタリア人だと思われますが、主としてドイツ語圏で活躍したコントラルト。この1824年の《湖の女》でパリにデビュー、スタンダールも誉めているように好評を得て、1826年までパリで活躍しました。その間、1825年6月19日の《ランスへの旅》初演でメリベア侯爵夫人を歌っています。
マルコ・ボルドーニ(1788−1856)は、イタリアのテノール。ベルガモでジョヴァンニ・シモーネ・マイール(ドニゼッティの師匠)に学んでいます。イタリアで活動したものの大きな成功を収めることはありませんでした。1819年にパリに移り、1833年まで活動しています。歌手としては一流とは言い難かったようで、スタンダールはボルドーニを酷評しており、ジャコモを歌うボルドーニについて、「下手くそで感情が欠けていた」(前掲書 363p)とか「第二幕でボルドーニがしみったれた小装飾音を付けて歌ったアリアは、およそ退屈しごくに思えた」(前掲書 367p)と、非常に手厳しく書いています。ボルドーニは、むしろ声楽教師として功績を残しています。
ルイージ・マリ(1790頃−1840年以降)は、1813年から1831年まで、スカラ座を拠点として活動したテノール。ただし彼は脇役専門の二線級の歌手でした。1813年12月26日の《パルミラのアウレリアーノ》の初演でタイトルロールを歌っていますが、これは直前に降板したジョヴァンニ・ダイヴィドの急な代役でした。スタンダールはやはり彼を酷評しています。
ニコラ=プロスペル・ルヴァッスール(1791−1874)は、当時のパリの名バス。イタリア劇場で多くのロッシーニのオペラを歌っており、1825年6月19日の《ランスへの旅》初演でドン・アルヴァーロを歌っています。その後、オペラ座に出演するようになりました。ロッシーニのオペラでは、《オリー伯爵》の家庭教師、《ギヨーム・テル》のウァルテルを創唱、さらにマイヤベーアの《悪魔ロベール》、《ユグノ》、アレヴィの《ユダヤの女》、ドニゼッティの《王の愛妾》など、多くの作品の初演に出演しています。
《湖の女》 1824年パリ稿の改編
この1824年のパリでの《湖の女》は、オリジナルからだいぶ改編を受けたものになりました。
第一に、第1幕のマルコルムの有名なカヴァティーナ Elena! oh tu, che chiamo! を、レチタティーヴォ Mura felici も含め外し、代わりに《セミラーミデ》のレチタティーヴォとアルサーチェのアリア Ah! quel giorno ognor rammento の音楽に差替えています。ただしレチタティーヴォは短縮されています(アリアはほぼそのまま)。歌詞は状況に合わせて変えられています。
この差替えには事情があります。イタリア劇場の監督で、イタリア人作曲家のフェルディナンド・パエール Ferdinando Paër(1771−1839)は、ロッシーニのオペラをイタリア劇場で取り上げるに当たって、しばしばロッシーニの別のオペラの曲を挿入して上演していました。マルコルムのカヴァティーナ Elena! oh tu, che chiamo! も、このパリ初演より前に、《オテッロ》でのデズデーモナの登場のアリアとして用いられ、親しまれていたのです。そのため、この1824年の《湖の女》パリ初演では、マルコルムのカヴァティーナを外さざるを得なかったのです。オリジナルを知っているスタンダールは、この改編を嘆いています。
第二に、第2幕の三重唱 Alla ragion deh rieda を外し、ここに3曲を転用します。まず、《ビアンカとファッリエーロ》からビアンカとファッリエーロの二重唱 Sappi che un rio dovere を、エレナとマルコルムの二重唱として置きます。歌詞は多少変えられた程度です。続くレチタティーヴォでロドリーゴとダグラスが加わり、次に《ビアンカとファッリエーロ》有名な四重唱 Cielo! il mio labbro inspira が置かれます。ここでは歌詞は大幅に変更されています。レチタティーヴォが挟まれた後、さらにエレナとウベルトの二重唱が置かれます。この音楽は、《アルミーダ》第2幕のアルミーダとリナルドの二重唱 Dove son io!... から取られたと考えられています。これら第2幕の大幅な手直しは、おそらくロッシーニ自身が行ったと思われます。
この第2幕の改編は、二人のテノールの水準が低かったことが原因でしょう。《湖の女》第2幕の三重唱は、ロッシーニの全オペラの中でも最も難易度の高い音楽の一つで、ナポリでの上演のようにジョヴァンニ・ダヴィド、アンドレア・ノッツァーリのような優秀なテノールが二人揃わないと様になりません。スタンダールの酷評から窺えるように、ボルドーニとマリの水準が低かったため、ロッシーニはオリジナルの三重唱を外してしまい、代わりに技術的に容易に歌える音楽に差替えたのです。
このように、1824年パリで上演された《湖の女》の形態は、かなり「対処療法的」なもので、オリジナルの《湖の女》が持っていた一貫性をひどく崩しています。しかし、優秀なテノールを二人揃えることが極めて困難だったため、19世紀の上演では多く踏襲されたようです。
今日、この1824年のパリ上演の形態を完全に再現するのは不可能だそうです。
註 ロッシーニのパリ滞在は、1823年の11月から12月にかけての一ヶ月が最初。その後ロンドンを訪れ、再びパリに戻りました。
補足 《ビアンカとファッリエーロ》の四重奏の挿入
ロッシーニの関与した形態ではありませんが、《ビアンカとファッリエーロ》の四重唱 Cielo! il mio labbro inspira は、その後、《湖の女》第2幕の合唱 Imponga il Re の後(つまり、エレナのロンドフィナーレの前)に挿入されるようになりました。ここでは、エレナ、マルコルム、ジャコモ、ダグラスの四重唱です。
1970年のトリノでの放送用演奏で、この形態で演奏していました。
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