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再発見された大作曲家、ロッシーニ

 1992年、ロッシーニは生誕200年を迎えました(ただし彼は2月29日という貴重な日に生まれたので、これでも50回目の誕生日でした)。前年のモーツァルトの没後200年ほどお祭り騒ぎにはなりませんでしたが、それでも生地ペーザロを中心に大きな話題になったことは確かです。
 この記念の年に向かい、ロッシーニは次々と「再発見」されオペラ界に衝撃を与えていました。「ロッシーニ・ルネサンス」と呼ばれる現象です。
 無論ロッシーニは彼の時代から今日に至るまで一貫して有名な作曲家でした。にもかかわらず、ここ10年ちょっとの間で彼の評価は一変するほど変わってしまったのです。有名なのに再発見される。何か矛盾していると思いませんか?
 これが意味するものは、要するにかつての彼への評価は、必ずしもその活動の全体像を見渡してのものではなかった、ということなのです。
 多少でもクラシックに親しみある人なら、ロッシーニの代表作「セビリャの理髪師」の名前くらいは知っているはずです。序曲とフィガロの歌う「何でも屋」の歌は誰でも一度は耳にしたことがあるほど有名です。
 「理髪師」が有名なのは良いのですが、しかしロッシーニが「愉快なオペラの作曲家」と思いこまれてしまうのは残念です。確かに彼の作曲活動においてオペラ・ブッファは重要な位置を占めていますが、それは活動の前半期にほぼ限られており、円熟期の傑作は全てドラマティックなオペラ・セリアなのです(ちょっと違いはありますが、「ホフマン物語」ばかりが有名になってしまったオッフェンバックとちょうど逆の現象です)。さらに彼は絶頂期にパリに移り、パリ式グランドオペラでも大成功を収めています。あの序曲のギャロップだけが有名な「ウィリアム・テル」(フランス語では「ギョーム・テル」)も、本体はヴァーグナーが絶賛した壮大無比の未来的オペラです。

ロッシーニはイタリアのヴァーグナーである

 意外に思われるかもしれませんが、ロッシーニは生涯を通じて常に前進と変革を続けた作曲家でした。初期と末期(といっても早々に作曲の筆を折ったので37歳ですが)では全く作風が異なります。
 1813年に「タンクレーディ」で大成功して以来、彼の音楽はイタリアのオペラ界を席巻しつづけました。ことに当時のイタリア・オペラの総本山とも言えるナポリに移って以降は、イタリア・オペラのリーディング・コンポーザーとして不動の地位を確立し、イタリアのみならずヨーロッパ中に多大な影響力を及ぼしました。彼の作品は各地で競って上演され絶賛され熱狂を引き起こしました。
 イタリアの音楽学校の教授たちがどんなに眉をひそめても、彼の斬新な和声の使用に若い学生が熱中することを止めることは出来ませんでした。結果として1810年代後半から1820年代にかけて、ロッシーニの模倣者が溢れかえりました。1823年の「セミラーミデ」を最後にロッシーニがイタリアを離れると、今度は模倣から抜け出せず混沌とした行き詰まりに陥ってしまいます。ドニゼッティにしてもベッリーニにしても、この時期の作品は多かれ少なかれロッシーニの影響が顕著で、そこからの脱却が彼らの大きな課題だったのです。
 オペラの400年の歴史において、これほどの多大な影響力を誇った人物は他に一人しかいません。リヒャルト・ヴァーグナーです。
 影響力の強さゆえ模倣者が続出したこと、死後多くの後輩作曲家がその影響から脱することが出来ず行き詰まりになってしまったこと、どちらもロッシーニがイタリアから去った後の状況と酷似しています。
 通常イタリア・オペラでヴァーグナーと比較されるのは同年生まれのヴェルディです。確かに共通している点も多々ありますが、彼の路線を継承する後輩は少なく、すぐに別の路線(ヴェリズモ)が台頭する点、大きく違いがあります
 ですから私は、イタリア・オペラにおいてヴァーグナーの働きをしたのはヴェルディでなくロッシーニである、と思っております。

ロッシーニのオペラはなぜ忘れられたか

 ロッシーニとヴァーグナーの類似性を指摘しましたが、一方両者には全く異なる点がありあます。
 ヴァーグナーの一般の評価は非常に遅れました。生前には熱烈な信者がいる一方で反対勢力も非常に強く、圧倒的な影響力はむしろ亡くなった後のことです。
 一方ロッシーニはデビューの後瞬く間に人気者になり、20代前半にはイタリア中を熱狂の渦に巻き込みます。しかし30代半ばで引退後は徐々に作品はレパートリーから外されていき、人気作を除くとほとんど闇に消えてしまいます。残ったのは「アルジェのイタリア女」、「セビリャの理髪師」、「チェネレントラ」、グランド・オペラの「モゼ」、「ウィリアム・テル」などです。

 ナポレオンに例えられたほど全ヨーロッパを支配したロッシーニのオペラは、なぜ消えてしまったのでしょう。
 原因は様々にあります。元よりオペラは新作が勝負で、現役で活動をしていなければいずれ消え行く運命にはありました。30代の終りで事実上の隠居になったロッシーニが忘れ去られるのも仕方ないことではあります。
 しかしもっと問題なのが、音楽の趣味、美学が急激に変化してしまったことです。つまり本格的にロマンティシズムが押し寄せてきたことにあります。
 ロッシーニの音楽だってチマローザやパイジェッロの時代に比べればはるかに劇的になっています。しかし基本的には古典派の範囲から大きく逸脱することはありませんでした。
 例えばマイヤベーアの「ユグノ」の有名な二重唱を聞くと、

ロッシーニ・テノール

 ロッシーニのオペラの台頭、衰退、そして「ルネサンス」、その全てにおいてキーワードとなるのが、ロッシーニ・テノールです。
 ロッシーニが表舞台に登場した頃は、オペラブッファ全盛時です。既に旧式のセリア(つまり「アリアのオペラ」)は消滅寸前で、カストラートの芸術も終焉に近づいていました。
 カストラートの華やかな装飾歌唱の様式は大きく二つの流れに分かれました。
 一つの流れはコントラルトに向かいました。というよりも既にバロックオペラの時代から男装のアルトが主役を歌う習慣はあり、これが発展したのです。「タンクレーディ」がその典型です。これは19世紀の半ば頃まで続きます。
 もう一つの流れが、テノールに向かいます。テノールはバロックオペラでは軽視されており、脇役、それもしばしば年配者の役が多く割り当てられていました。そうした地位の低いテノールも技術が向上し、古典派の頃までには主役を務めるようになります。その時彼らが目指したもの、それはやはりカストラートが作り上げた美学だったのです。
 なめらかなラインと見事なコロラトゥーラテクニック、そして広い音域。これらカストラートの武器のうち、前ニ者はテノールでも努力でクリアできます。問題は音域の拡大でした。それも当然高い音域です。
 男声は普通に声帯を使う限りAくらいから上は突っ張ってしまいます。現在のテノールでもこの音域を引っ張るための訓練をしています。しかしこの技術が確立するのはロマン派の時代です。
 ロッシーニの時代のテノールたちは頭声という、声帯の力を抜いて声を頭に抜かすように発声する方法を使ったのです。これならばハイC以上の超絶高音やアクロバティックなコロラトゥーラも自在に操れます。ただ力強さや声量は期待できません。当時は劇場も小さく、ドラマティックと言っても限度があったのでそれで十分だったのです。
 おそらく今こういう歌い方をしたら全く相手にされないでしょう。現代人の耳はもう胸声になれてしまっており、頭声は受け付けなくなってしまっているのです。また歌手もこうした「強い頭声」を訓練していないので、再現するのは不可能に近いです。

 ロッシーニ・ルネサンスにおける最大の難所が、近代発声に立脚しかつ超絶高音とアクロバティックなコロラトゥーラをこなせる新しいロッシーニ・テノールの出現でした。しかし、要望があると対応があるようで、80年代に入ってから次々とこうした問題をクリアーした歌手が現われました。ロブストな声をハイEsまで引っ張るクリス・メリット、恐ろしいまでのコロラトゥーラ・テクニックで「理髪師」の伯爵の大アリアの素晴らしさを世界に認知させたロックウェル・ブレイク、漂うアロマのように力の抜けきった声でハイFをだすウィリアム・マッテウッツィ。90年代に入ると、さらに情熱的なグレゴリー・クンデ、知的でありながら色気もあるバランスの取れたブルース・フォード、先駆者であるエルネスト・パラシオの秘蔵っ子、ファン・ディエゴ−フローレスなど、続々と新しい世代の歌手が登場してきました。
 残念なことに、声帯を酷使するロッシーニテナーは寿命は長くなく、短い華々しい活躍の後、かなり速く第一線から退くことにもなりました。メリットは今ではドイツものの性格テナーですし、ブレイクとクンデはフランスオペラで活躍しています。
 

スタンダールの「ロッシーニ伝」について
ナポレオンは死んだが、また別の男が出現して、モスクワでもナポリでも、ロンドンでもウィーンでも、パリでもカルカッタでも、連日話題になっている。この男の栄光は、文明の及ぶ境界に制限されるだけである。しかもまだ32歳にもならないのだ。

 おそらくロッシーニの音楽と共に語り継がれるであろうこの一節、これは文豪スタンダールが書いた「ロッシーニ伝」の序文の初めの部分です。
 スタンダールはフランス人ですが、ナポレオンの遠征に従軍してイタリアを訪れて以来大のイタリアびいきになりました。ナポレオン失脚後(当然彼も職を失います)、ミラノへ半ば亡命する形で移住、1814年から21年までという、まさにロッシーニ旋風真っ只中の時期をここで過ごします。
 山辺雅彦氏の訳者あとがきによると、当初スタンダールはむしろ反ロッシーニ的言動をしていたようです。ところがパリに戻ったことでかえってロッシーニの才能を正しく認識出来たようで、1823年「ロッシーニ伝」を刊行します。ロッシーニが(偶然にもまるでスタンダールを追いかけるように)パリに移住することで、パリでもロッシーニ・ブームがおこり、本は好評に迎え入れられます。これを受けてスタンダールは1824年からパリでイタリアオペラを上演するイタリア座の公演の新聞評を担当します。ここでさらに「ランスへの旅」までのロッシーニの作品について論じています。
 はっきり言って資料的にはでたらめだらけです。さらにスタンダール自身音楽的教養は乏しく、描写も具体性に欠けるので、ただ読んでいるだけではもどかしく思うことも多々あります。ですからこの本を学術的に読むということは無理があります。
 しかしこの本には、その時代に生きてロッシーニの熱狂を生で感じた人物だけが語る権利を有する「真実」があちこちに見られるのも確かです。
 特に作品が初演された頃の社会風俗人間など、今日の我々からは失われてしまった様々な様相がスタンダールの記述によって作品の背景に据えられると、作品を見る目が突如立体的になったようでドキッとさせられることもしばしばです。
 また近代のやかましい音の洪水の中で育った我々がいかに繊細な感性を失っているかも、彼の記述から汲み取ることができます。当時の聴衆は我々が見過ごすようなことにも鋭敏に反応しているのです。
 そうしたことを、スタンダールの評を追っかけながらCDを聞いて確認していくだけでも、ずいぶんロッシーニを見る目が変わっていくことには本当に驚かされます。
 ロッシーニの音楽が引き起こす熱狂によってスタンダールはこの本を書き、その本によって現代の我々はかつての熱狂を想起することが出来る。こうした例はそうは多くないでしょう。とにかくありがたい本です。

「ロッシーニ伝」
スタンダール
山辺雅彦訳
みすず書房
本体定価8000円
ISBN4-622-04386-6

 うれしいことに、このありがたい本は生誕200年を記念して邦訳されました。日本でのスタンダール研究の第一人者、山辺雅彦氏の訳で、みすず書房から刊行されました。ここでの「ロッシーニ伝」の引用は全てこの本によっています。この本は訳注も訳者あとがきも大変懇切丁寧な良心的なものです。ロッシーニアンを称するならば絶対に手元に持っているべき本です。値段が高いなんて言っては失礼ですぞ!


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