《ジューリオ・チェーザレ・イン・エジット》に戻る



歴史上のカエサルとクレオパトラ


 《ジューリオ・チェーザレ》を楽しむにあたって参考になると思われる事柄を簡単にまとめておきます。念のためカエサルの生まれた時期から、クレオパトラの死までを概観しておきます。
 さらに詳しい内容は、専門の本などを御覧ください。

混乱のローマ

 カエサルの時代のローマは、共和国制ローマ(紀元前510−紀元前27年)の末期です。この時代は「内乱の一世紀」と呼ばれるほどローマは不安定な時期でした。ローマの政治では保守的な閥族派と新興の平民派が激しく対立していて、内乱にまで発展することもしばしばでした。また属州での大規模な反乱も続発しました。  紀元前80年代、平民派のマリウス(紀元前157−紀元前86)と閥族派のスラ(紀元前137−紀元前78)の権力争いは頂点に達していました。マリウスはスラに追い出される格好でしたが、スラが東方に遠征中、平民派キンナが執政官に就任、これに乗じてマリウスがローマに戻り粛清をします。ところが彼はまもなく病死、スラは紀元前82年に帰国、亡くなる前年の紀元前79年に引退するまで独裁体制を引きます。

カエサルとポンペイウス 第一次三頭政治まで

 ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前100年に生まれました。ユリウス家という名門の出ながら、彼の父は大した地位にはありませんでした。
 紀元前84年、キンナの娘コルネリアと結婚、ところがすぐにキンナが暗殺されてしまいます。スラはカエサルにコルネリアと離縁するよう迫りますが、彼はこれを受け入れず小アジアへ逃れます。紀元前78年にスラが亡くなるまで、カエサルはローマに帰国することはありませんでした。

 この後のカエサルの立身出世については長くなるので割愛。

 壮年に達した紀元前60年、元老院に対抗するため、ポンペイウスとクラッスス(大金持ちで知られる政治家)と密約を交わし、第一回三頭政治を確立します。翌紀元前59年に執政官に就任。さらに紀元前58年から51年まで、ガリア総督として非ローマ領を征服するガリア戦争を挙行し勝利を収め、名声を高めます。とりあえずここまで。

 一方、オペラでは首だけしか登場しないグナエウス・ポンペイウス・マグヌスは紀元前106年生まれ。閥族派の有力人物になり、紀元前70年のスパルタクスの反乱を始めとする各地での反乱の鎮圧に加わります。また紀元前67年、地中海の海賊の掃討に成功、紀元前66年には、長年ローマ帝国を悩ませつづけていた小アジアのポントスの王ミトリダテス6世(モーツァルトのオペラで知られるミトリダーテ)との戦いに決着をつけ、シリアなど東方地域を支配下に置くことに成功。これらの華々しい活躍の一方で元老院での敵も多くなったため、紀元前60年、対抗のため第一回三頭政治に参加。紀元前55年、再び執政官に就任。

カエサルとポンペイウスの戦い

 紀元前54年、ポンペイウスの妻となっていたカエサルの愛娘ユーリアが亡くなり、二人の親族関係が切れます。さらに翌紀元前53年にはクラッススが遠征先で亡くなり、第一回三頭政治が崩壊。政治的混乱もあったことで、元老院とポンペイウスの関係が密になり、紀元前52年、ポンペイウスは元老院から単独の執政官という強大な権限を与えられます。

 一方カエサルは、軍指揮権を保ちつつ執政官に立候補するため、元老院と激しい駆け引きを行っていました。しかし紀元前49年1月、元老院から最終的に指揮権放棄を突きつけられたため、「賽は投げられた」とガリアとローマの国境であったルビコン川(ラヴェンナとリミニの間を流れる)を越え進軍します。
 軍事的に劣勢のはずのカエサルが進軍してくると思っていなかったポンペイウスや元老院議員たちはあわてて東方へ逃れます。カエサルはそれを追いかける前に、夏の間にポンペイウスの勢力基盤となっていたスペインを制圧。翌紀元前48年、執政官に就任、公的に正当な立場でポンペイウスを追って東方へと向かい、8月9日、ギリシャ半島のファルサルスでポンペイウス軍を撃破します。
 ポンペイウスは最後の頼みの綱、プトレマイオス朝エジプトの援助を求め、地中海を渡りアレクサンドリアへと向かいます。しかし9月28日、プトレマイオス13世は上陸目前のポンペイウスを処刑、その首を10月2日にアレクサンドリア入りしたカエサルに献上したのです。


カエサルとクレオパトラ

 クレオパトラ7世(紀元前69−30年)は、プトレマイオス13世の姉。エジプト人ではなくマケドニア人です。近親婚のしきたりで、紀元前51年、姉弟は結婚し共同統治を始めます。しかしクレオパトラが独裁的な行動を取ることにプトレマイオス13世とその取り巻きが怒り、紀元前49年にクレオパトラはアレクサンドリアから追放されてしまいます。
 復権を望んでいたクレオパトラは、ポンペイウスを追ってアレクサンドリア入りしたカエサルを、持ち前の美貌と優れた話術で虜にしてしまいます。紀元前47年、クレオパトラはカエサルの助力を得てプトレマイオス13世を倒し、エジプト女王(別の弟がプトレマイオス14世となり、形の上では共同統治)になります。そしてカエサルとクレオパトラは愛人関係となり、後に息子カエサリオンも誕生します。
 アレクサンドリアに滞在しているとき、カエサルは、ローマの援軍の到着を知り、湾の防波堤(非常に重要な拠点)を占拠しようとして失敗、自分の船を捨てて海を泳ぐという九死に一生を得ています。


カエサルの独裁と暗殺

 紀元前46年、カエサルはローマに帰還、クレオパトラをローマに呼び寄せています。10年間の独裁官(ディクタトル)に任命されます。紀元前45年元老院よりインペラトルの称号を受け、敵の無い絶頂期になります。そして政治改革、ローマの貧民対策、ユリウス暦の採用と、次々に大胆な政策を実行します。
 しかし紀元前44年3月15日、あまりの権力増大に、カエサルが王位を狙っていると危機感を覚えた一派(ブルートゥスやカッシウスら)によって、暗殺されます。


第二次三頭政治

 突然のカエサルの死にクレオパトラは息子カエサリオンを連れてエジプトに帰国。
 カエサルの後継者は遺言によりカエサルの親族で養子になっていたオクタウィアヌスでした。しかし彼は紀元前63年生まれでまだ20歳そこそこ。一方、最も政治手腕に優れていたのは、紀元前82年生まれのマルクス・アントニウスでした。この二人は対立関係でしたが、カエサルに仕えていた将軍レピドゥスの仲介で和解、紀元前43年、この三者による第二次三頭政治が確立されます。
 三者は、ローマの属州での勢力を決めます(大雑把に言って、オクタウィアヌスは西方、アントニウスは東方、レピドゥスは南方)。そして当面の第一の目的、カエサルの敵討ちを決行します。反対勢力の元老議員多数を処刑、さらにマケドニアなどの東方の属州に逃亡していたブルートゥスとカッシウスの一派をフィリッピの戦いで打ち破ります。


クレオパトラとアントニウス

 戦いの後、オクタウィアヌスはローマに戻ります。一方、アントニウスは東方に向かい、地中海の最も東に位置するキリキアで、エジプトから呼び出されたクレオパトラと対面します(クレオパトラが呼び出されたのは、アントニウスが東方平定するための資金援助を求めるためだったといいます)。即座にアントニウスは夢中になり、エジプトで二人は愛人関係になります。紀元前40年にクレオパトラは双子を出産。
 この後アントニウスはローマに召還され、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと政略結婚、紀元前39年からしばらくは東方でパルティア討伐に明け暮れます。しかし紀元前36年に大敗を喫してしまうと、それ以降はもっぱらクレオパトラとの愛の生活にのめり込んでいきます。さらに紀元前34年、アントニウスは東方の諸属州を勝手にクレオパトラに与えると宣言、ローマの反発を招きます。
 オクタウィアヌスは、アフリカの属州を統治していたレピドゥスを引退へと追い込み、三頭政治が崩壊します(レピドゥスがアントニウスを手助けする可能性があったからです)。これによりオクタウィアヌスのローマ側とアントニウスのエジプト側という対立の構図が明確になります。
 そして紀元前33年、アントニウスは正妻であり、オクタウィアヌスの姉であるオクタゥィアに離縁を突き付けます。これはオクタウィアヌスをさらに怒らせ、ついにアントニウスはローマの役職から追放され、敵とみなされます。


クレオパトラとアントニウスの死

 紀元前32年からオクタウィアヌスの軍勢はエジプト軍との戦いを開始、そして紀元前31年9月2日、ギリシャ西海岸のアクティウム半島の沖で激突。戦いは拮抗していたのですが、突然クレオパトラが逃亡、さらにこれを追ってアントニウスも戦隊を離れてしまい、エジプト軍は壊滅。クレオパトラはアレクサンドリアに戻り、アントニウスもこれに加わります。
 紀元前30年8月1日、クレオパトラは自殺したという偽報を流し、これを聞いたアントニウスは絶望し自害します。一方クレオパトラは進軍してきたローマ軍に捉えられましたが、隙を見て自害しています。


その他の人々

 セクストゥス・ポンペイウス
 大ポンペウスとその三番目の妻、ムキアとの息子。紀元前67年頃生まれ。カエサルがポンペイウスを倒した後、一旦はローマに戻ったようですが、すぐにポンペイウス勢力の残党がいるアフリカ属州に渡っています。ここには小カトー、メテルス・スキピオ、セクストゥスの兄グナエウスらが結集していて、カエサル打倒の機会を窺っていました。しかし紀元前46年にカエサルのアフリカ戦役で敗北、カトーは自害。
 セクストゥスとグナエウスはスペイン南部に逃れ、紀元前45年にカエサル軍と激戦、敗北します。ここで兄グナエウスは処刑され、セクストゥスは逃れます。
 カエサル暗殺後、セクストゥスはシチリアを拠点とする海賊となって地中海を行き交う食料輸送船などを襲い、ローマを食料難で苦しめました。オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスは、セクストゥスと協定を結び、彼をシチリア近辺の総督につける代わりに海賊行為をやめさせることにします(アントニウスにはオクタウィアヌスを牽制するという利点がありました)。しかし政治的思惑から協定は長続きせず、オクタウィアヌスは二度攻撃します。しかし敵は海賊、二度とも敗退。紀元前36年の三度目の攻撃で名将アグリッパがセクストゥスを打ち破ることに成功します。セクストゥスは流刑にされ、紀元前35年に亡くなっています。

 コルネリア
 執政官であったスキピオの娘。ポンペイウスの五番目の夫人。四番目の夫人である、カエサルの娘ユリアが紀元前54年に亡くなったため、紀元前52年に結婚。コルネリアも二度目の結婚で、一度目の夫、プブリウス・リキニウス・クラッススは第一次三頭政治のマルクス・リキニウス・クラッススの息子で、父と同様紀元前53年にパルティア軍との戦いで亡くなっていました。
 ファルサルスの戦いで破れたポンペイウスと共にエジプトに逃れますが、エジプト側にポンペイウスは暗殺、カエサルはポンペイウスの遺灰と印象をコルネリアに返しています。ローマに戻り余生を過ごしています。
 上記の通り、セクストゥスは実子ではありません。

 ガイウス・スクリボニウス・クリオ
 ローマの政治家。紀元前84年生まれ。当初閥族派(つまり反カエサル)でしたが、紀元前50年護民官になったとき買収されカエサル派に転じ、以来カエサルの腹心の部下になります。カエサルとローマの元老院の対立が頂点に達したときにはガリアのカエサルとローマの連絡係として重要な役割をし、カエサルにルビコン川を渡るよう勧めた人物ともいわれています。紀元前49年、カエサルがエジプトに到着するより前にアフリカのヌミディアで亡くなっています。長生すればアントニウスより格が上だったことでしょう。

 プトレマイオス13世
 エジプト王。紀元前63年生まれ。クレオパトラの弟。紀元前51年、王家のしきたりによりクレオパトラと結婚し、共同統治者となります。年少のためポティノス、テオドトス、アキラスなどの側近の補佐官がいました。紀元前49年、ポンペイウスに援助をしたクレオパトラへに市民の反感が増大したことを利用して彼女を追放します。紀元前48年、敗戦し援助を求めてきたポンペイウスの殺害を実行させ、これをカエサルに献上します。カエサルがクレオパトラを復権させたことに怒り兵を上げますが、紀元前47年、カエサル軍に援軍が到着、追撃され逃亡中に船が沈み水死。

 アキラス
 プトレマイオス13世の側近の軍司令官。紀元前48年、ポンペイウスの殺害を計画したのは王の教育官テオドトスですが、実行したのはアキラスと、ポンペイウスと面識のあったセプティミウスです。カエサルがエジプトに到着した直後、内乱で亡くなっています。


参考文献は本文を参照ください。