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ドニゼッティ御殿 目次



GAETANO DONIZETTI

IL PIGMALIONE



1幕の抒情的情景 Scena lirica in un atto
作曲 1816年9月15日―10月1日 ボローニャ
初演 1960年10月13日 ベルガモ ドニゼッティ劇場
台本 以下のアントーニオ・シモーネ・ソグラーフィの台本を流用
原作 オウィディウス『変身物語』第10章
   →ジャン=ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau(1712−1778)《ピグマリオン Pygmalion》(1770年、リヨン)
   →ジョヴァンニ・バッティスタ・チマドーロ Giovanni Battista Cimadoro《ピグマリオーネ》(1790年1月26日、ヴェネツィア)のためのアントーニオ・シモーネ・ソグラーフィ Antonio Simone Sografi(1759―1818)の台本
   →フランチェスコ・ニェッコ Francesco Gnecco(1769―ca.1810)《ピグマリオーネ Pigmalione》(1794年、ジェノヴァ)
   →ボニファーツィオ・アジョーリ Bonifazio Asioli《ピグマリオーネ Pigmalione》(1796年)


ボローニャ留学
 ドニゼッティは故郷ベルガモで、バイエルン生まれの師匠ジョヴァンニ・シモーネ・マイール(Giovanni Simone Mayr[注] 1763―1845)によって才能を見出され、マイール主宰の慈善音楽学校で音楽の基礎教育を受けた。
 1815年秋、マイールはドニゼッティをボローニャに留学させ、より高度な音楽教育を受けさせることにした。ボローニャでは、1666年創設の由緒あるアッカデミア・フィラルモニカが母体のリチェオ・フィラルモニカという音楽学校が1804年に開校、ここでは優れた音楽教師(イタリアにおける対位法の権威)スタニスラオ・マッテイ神父(1750―1825)が教鞭をとっていた。この数年前、1805年から1809年までジョアキーノ・ロッシーニがリチェオ・フィラルモニカに通っており、マッテイ神父の対位法のコースを2年半受講していた。ドニゼッティも同様にマッテイ神父の下で対位法を学ぶことになり、1815年11月から1817年12月までボローニャに滞在した。


注 マイールのドイツ名はヨハン・ジーモン・マイヤー Johann Simon Mayr。生まれはメンドルフというバイエルンの村。レーゲンスブルク近郊のアルトマンシュタインという町からさらに4、5km離れたところにある(ミュンヘンから北に80kmほど)。インゴルトシュタット大学で神学を学んでいたが、この頃から音楽への関心が高まり、作曲も行っていた。1789年にベルガモに移り、当地のサンタ・マリア・マッジョーレ教会のマエストロ・ディ・カペッラを務めていたカルロ・レンツィ Carlo Lenzi(1735―1805 彼はアッツォーネの生まれだが、若い頃ナポリで音楽を学んでいた)に音楽を学んだ。マイールはイタリアで作曲活動を本格化させ、1790年代から1810年代まで、つまりロッシーニが台頭するまでの時期には極めて人気の高いイタリアオペラの作曲家だった。1802年にはレンツィの後任としてサンタ・マリア・マッジョーレ教会のマエストロ・ディ・カッペッラに就任。1806年に慈善音楽学校 Lezioni caritatevoli を設立、その第一期生にドニゼッティがいた。
 ドニゼッティの師匠がバイエルン人ということは、ドニゼッティを理解する上での一つの鍵となる。


作曲
 《イル・ピグマリオーネ》は、このボローニャ留学中に作曲された作品である。ただし課題作品だったわけではなく、ドニゼッティがまったく自発的に書いたものである。自筆譜に残された記述によると、1816年の9月15日に作曲を開始し、10月1日に完成させている。おそらく18歳のドニゼッティは、これから進むであろうオペラ作曲家の道を夢見て腕試しをしたのだろう。登場人物は二人だけ、上演時間は30分ほどの、まさしく若書きの習作である。


初演
 依頼なしに書いた作品だったので、出来上がったところで上演されることはなかった。さらにはドニゼッティの生前にも陽の目を見ることはなかった。
 初演は、書き上げられてから実に144年も後の1960年10月13日、ベルガモのドニゼッティ劇場(ドニゼッティ・フェスティヴァルとして)で行われた(後述の録音)。


あらすじ
 彫刻家ピグマリオーネは創作に行き詰っている。だが自らが作ったガラテア像の覆いを取り除けると、その見事な出来栄えに惚れ惚れとする。やがて彼は、ガラテア像が本物の女性になったように感じる。ガラテア像は彼に優しく語りかけ、二人は抱き合って喜ぶ。


音楽
 信頼できる楽譜が未入手なので概要のみ。
 前奏の後、基本的にピグマリオーネの歌とレチタティーヴォが交替しながら進行する。ガラテアは最後の方になって少し歌うだけ。
 習作とはいえ、ドニゼッティの音楽はかなりの水準で出来上がっている。特筆すべきは、まだロッシーニの影響がほとんど見られないことで、ドニゼッティが師匠マイールから受け継いだ音楽が直接反映されているように感じられる。


参考資料
Donizetti and his Operas / William Ashbrook / CAMBRIDE UNIVERSITY PRESS / 1983 /ISBN 0-521-27663-2
William Ashbrook / Donizetti La vita / EDT / Torino / 1986 / ISBN 88-7063-041-2
Guido Zavadini / Donizetti / ISTITUTO ITALIANO D'ARTI GRAFICHE / Bergamo / 1948
ガエターノ・ドニゼッティ ロマン派音楽家の生涯と作品 / グリエルモ・バルブラン,ブルーノ・ザノリーニ,高橋 和恵 訳 / 昭和音楽大学/ 1998 / ISBN4-9980713-0-0
Egidio Saracino / Tutti i libretti di DONIZETTI / Garzanti Editore / Milano / 1993 / ISBN 88-479-0119-7


Pigmalione ... Paolo Pellegrini
Galatea ... Susanna Rigacci

Orchestra da Camera dell'Associazione In Canto
Fabio Maestri

Teatro Verdi, Terni, Italia
September 1990
BONGIOVANNI GB 2109/10-2

音質はこれが最も優秀。しかしピグマリオーネのパオロ・ペッレグリーニが冴えず、今一つの出来に留まっている。


Pigmalione ... Giuseppe Baratti
Galatea ... Maria Grazia Ferracini

Orchestra Sinfonica della RAdio di Lugano
Bruno Rigacci

Lugano
12 March 1974
ON STAGE! 4701

リガッチが軽めに音楽を作り、ピグマリオーネのジュゼッペ・バラッティも良く、聞き応えはある。ただ年代にしては録音がだいぶ貧弱なのが惜しい。


Pigmalione ... Doro Antonioli Galatea ... Oriannna Santunione

Orchestra del Teatro Gaetano Donizetti
Teatro Donizetti, Bergamo, Italia
13 October 1960

MYTO HISTORICAL LINE 1 CD 00241

《イル・ピグマリオーネ》初演のライヴ録音。ピグマリオーネのドーロ・アントニオーリは悪くないが、全体にスタイルが古く、音楽が重い。録音もあまり良くはない。


附録 《オリンピーアデ》、《アキッレの怒り》
 《イル・ピグマリオーネ》と同様、ボローニャ留学時代のドニゼッティはいくつかオペラの習作を残している。

 メタスタージョの有名な台本を用いた《オリンピーアデ Olympiade》からの二重唱が伝わっている。これは1817年に作曲されたと推測されている。ただドニゼッティはおそらくこの二重唱だけしか書かなかったようで、これをオペラとして扱うわけにはいかない。

 一方、《アキッレの怒り L'ira d'Achille》という作品は、第1幕のかなりの分量と第2幕の二重唱が残されており、制作途上で放棄された未完のオペラとしてみなすこともできる。台本は、ジュゼッペ・ニコリーニ Giuseppe Nicolini(1763−1842)の《アキッレの怒り L'ira d'Achille》(1814年12月26日、ミラノ、スカラ座で初演)の台本を流用している。この台本の作家は不詳だが、フェリーチェ・ロマーニではないかと推測されている。
 おそらくこの作品も依頼なしに作られ、つまり上演の目処があったわけではないと考えるのが妥当だろう。






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