GAETANO DONIZETTI
ENRICO DI BORGOGNA
2幕のメロドランマ Melodramma in due atti
初演 1818年11月14日、ヴェネツィア、サン・ルカ劇場
台本 バルトロメオ・メレッリ Bartolomeo Merelli
原作 アウグスト・フォン・コツェブエ August von Kotzebue(1761-1819)の戯曲『ブルグントの伯爵 Der Graf von Burgund』(1798 ライプツィヒ)
《ブルグントのエンリーコ》は、ドニゼッティがオペラ興行のために依頼を受けて作曲した初めての作品であり、つまり彼の実質的オペラデビュー作である。21歳の誕生日を目前にしたドニゼッティは、この作品でオペラ作曲家の第一歩を踏み出した。
ボローニャ留学とその後
ドニゼッティは故郷ベルガモで、バイエルン生まれの師匠ジョヴァンニ・シモーネ・マイール Giovanni Simone Mayr 1763―1845 によって才能を見出され、マイール主宰の慈善音楽学校で音楽の基礎教育を受けた。
1815年秋、マイールはドニゼッティをボローニャに留学させ、より高度な音楽教育を受けさせることにした。ボローニャでは、1666年創設の由緒あるアッカデミア・フィラルモニカが母体のリチェオ・フィラルモニカという音楽学校が1804年に開校、ここでは優れた音楽教師(イタリアにおける対位法の権威)スタニスラオ・マッテイ神父(1750―1825)が教鞭をとっていた。この数年前、1805年から1809年までジョアキーノ・ロッシーニがリチェオ・フィラルモニカに通っており、マッテイ神父の対位法のコースを2年半受講していた。ドニゼッティも同様にマッテイ神父の下で対位法を学ぶことになり、1815年11月から1817年12月までボローニャに滞在した。
ボローニャ留学の末期、ドニゼッティはアンコーナの上流階級の人々に音楽のレッスンをつける職を打診されるが、これを断ってしまった。ドニゼッティは、在学中の1816年9月に依頼もないまま習作オペラ《イル・ピグマリオーネ》を書き上げたことからも分かるように、オペラ作曲家として歩む強い決意があったのだろう。
ドニゼッティは留学を終えて1817年の年末に故郷ベルガモに戻る。そしてしばらくの間、オペラを作曲する機会を待つことになる。
作曲
ドニゼッティの最初の興行オペラを依頼をしたのは、パオロ・ザンクラ Paolo Zanclaという人物だった。ザンクラはシチリア出身で、当時ヴェローナを拠点として北イタリアの各都市を巡回するオペラ一座を興行していた。
ザンクラの一座は1817/1818年のシーズン、ベルガモのソチエタ劇場 Teatro della Societa でオペラ興行を行っており、この時にドニゼッティと知り合ったと考えられている。
マイールの慈善音楽学校でドニゼッティの学友だったマルコ・ボネージ Marco Bonesi 1796―1874 が1861年7月16日付で書いた手紙『ドニゼッティに関する伝記的覚書 Note biografiche su Donizetti』によると、ドニゼッティはベルガモのオペラ公演に出演した歌手の夫婦、ジュゼッピーナ・ロンツィ Giuseppina Ronzi 1800―1853 [注]とジュゼッペ・デ・ベニス Giuseppe De Begnis 1793―1849 とヴェローナまで同行したが、何ら成果はなかったという。ただしこの件については十分な裏付けが取れていない。ただ4月11日付でドニゼッティがボローニャ音楽院のフランチェスコ・バルビエーリに宛てた手紙が残されているのだが、これがヴェローナから送ったものだと考えられている。
一方、同じベルガモ生まれで、ドニゼッティより3歳半年上、そしてやはりマイールから指導を受けたバルトロメオ・メレッリ(1794-1879 彼がこの作品の台本作家になる)も情報を残している。1818年4月18日付でメレッリがヴェネツィアからマイールに宛てた手紙に「ドニゼッティは今頃、ヴェローナに移った興行主から9月の契約を受けたことでしょう。」とある。これはドニゼッティがザンクラと契約するためヴェローナに赴いたことを窺わせる。一方でメレッリは、晩年の1875年に出版した回想『80歳のある老音楽愛好家の記憶から拾い集められたドニゼッティとマイールについての伝記的要約 Cenni biografici di Donizetti e Mayr raccolti dalle memorie di un vecchio ottuagenario dilettante di musica』で、ドニゼッティがザンクラから依頼を受けた経緯に触れている。要約すると、公演のためベルガモに滞在してたザンクラは、ドニゼッティの良い噂を聞きつけ、次のシーズンの開幕公演の作曲家にドニゼッティを起用しようと思いつく。彼はまずこの件についてメレッリに打診してから、ドニゼッティがメレッリの書く台本に作曲するよう約束させた、といったものである。これを信用するならば、ザンクラはベルガモ滞在中にドニゼッティへの新作依頼を決めていたことになる。これに基づいて、4月に(ドニゼッティがヴェローナまで行ったかどうかは別としても)正式に契約を結んだということなのだろう。
もっとも、ザンクラがベルガモに滞在していたのであれば、ドニゼッティとメレッリの師匠であるマイールが彼と交渉して、若い二人に仕事を回してもらったという可能性も十分にあり得るだろう。
ザンクラがドニゼッティと交わした契約書は見つかっていないが、1818年5月16日付でザンクラがメレッリと交わした契約書は発見された。そこでは、台本を8月末までに引き渡すこと、10月にはメレッリとドニゼッティは、ザンクラの本拠地であるヴェローナに赴くことが要求されている(ヴェローナで上演準備をして、ヴェネツィアで初演するため)。
この時点では、台本の原作は、ドイツの作家アウグスト・フォン・コツェブエ August von Kotzebue(1761-1819)の戯曲『ヨハンナ・フォン・モントファウコン Johanna von Montfaucon』 (1800 ライプツィヒ)だった。しかし実際に台本の原作となったのは、同じコツェブエの『ブルグントの伯爵 Der Graf von Burgund』 (1798 ライプツィヒ)だった。
作曲そのものについての情報は何もない。
1818年10月、ドニゼッティは契約に従いヴェローナに向かい、初演の準備に当たった。《ブルグントのエンリーコ》の楽譜は大方出来上がっていたはずである。というのも、現地に到着してからドニゼッティは、エリーザが、コントラルトのコスタンツァ・ペトラリア Costanza Petralia [注]から、ソプラノのアデライデ・カタラーニに変更になったことを知らされ、エリーザの音楽を書き直す必要に迫られたからである。10月13日付のマイールへの手紙でドニゼッティはこう報告している。「プリマドンナのぺトラリアに代わって、小カタラーニ[注3]が出演契約をしていました。彼女は大きな美しい声を持っていて、僕はとても幸福な結果を期待しています。そのソプラノのためにいくつかのものを書き直さなくてはなりませんが、当初よりずっとよい女性を得るのであれば僕にとって大したことではありません」。だが小カタラーニは、オペラの舞台で歌ったことのないまったくの新人で、彼女のせいで初演は台無しになるところだった(後述)。
注1 当時ジュゼッピーナ・ロンツィは17、18歳だったが、この数年後にはパリ、ロンドンで大成功を収め、ドニゼッティの時代を代表するプリマドンナとして名声を博した。ドニゼッティのオペラでは、《ファウスタ》(1831 ナポリ)、《カスティーリャのサンチャ》(1832 ナポリ)、上演禁止になった《マリア・ストゥアルダ》とその代替作《ブオンデルモンテ》(1834 ナポリ)、《ジェンマ・ディ・ヴェルジ》(1834 ミラノ)、《ロベルト・デヴェル》(1837 ナポリ)の初演でプリマドンナを務めた。
注2 コスタンツァ・ペトラリアについての情報は乏しいが、1810年代、1820代にイタリアの各都市に出演した記録があり、また1830年にはロンドンのイタリア劇場でロッシーニの《セミラーミデ》のアルサーチェや《湖上の美人》のマルコムを歌っていた(どちらも不評だったが)ので、それなりの実力の持ち主だったことが窺える。
注3 19世紀初頭の大プリマドンナ、アンジェリカ・カタラーニ Angelica Catalani(1780―1849) と区別するため『小カタラーニ』と呼ばれた。
初演
初演は1818年11月14日、ヴェネツィアのサン・ルカ劇場で行われた[注1]。サン・ルカ劇場は1818年に大改修されており、これは改修後のシーズン開幕公演で、かなり注目される公演だったはずである。
EnricoFanny Eckerlincontralto
PietroGiuseppe Fusconitenore
ElisaAdelaide Catalanisoprano
GuidoGiuseppe Spechtenore
GilbertoAndrea Vernibasso
BrunoneGiuseppe Fioravantibasso
NicolaPietro Verduccitenore
GeltrudeAdelaide Cassagosoprano
歌手は、劇場の新装開場記念公演にふさわしく、無名の新人オペラ作曲家の作品としては通常考えられないほど優れた歌手が多く集められていた。
タイトルロールのファンニ・エッケルリン(1802―1842)は、ポーランド系のコントラルト。1820、1830年代にかなり活躍し、1840年に引退。ロッシーニが《ゼルミーラ》を初演直後の1822年4月にウィーンで上演する際、彼女ためにエンマのアリア Ciel pietoso, ciel clemente を追加したエピソードがよく知られている。この《ブルグントのエンリーコ》初演はまだデビュー直後の頃だった。
ピエトロのジュゼッペ・フスコーニは、1821年2月24日、ローマでのロッシーニ《マティルデ・シャブラン》初演(初演時には di がなかった)におけるコッラディーノとしてオペラ史に名を残している。
グィードのジュゼッペ・スペクは19世紀初頭に活躍したテノール。彼にはアデリーナ(1811―1886)という娘がおり、彼女は1833年9月にドニゼッティの《トルクワート・タッソー》でエレオノーラ・デステを創唱した。
ジルベルトのアンドレア・ヴェルニ(1770頃―1822)はローマ生まれ。19世紀初頭に活躍したバッソブッフォで、ことに1817年のロッシーニ《ラ・チェネレントラ》初演でドン・マニーフィコを創唱したことで名高い。また《セビリアの理髪師》の評価を決定づけた1816年8月のボローニャでの再演におけるフィガロでもある。
ブルノーネのジュゼッペ・フィオラヴァンティ(1790頃―1850頃)は、19世紀前半のイタリアの重要なバスの一人。作曲家ヴァレンティーノ・フィオラヴァンティの息子。1819年2月26日、ミラノのスカラ座でのロッシーニ《ビアンカとファッリエーロ》初演のカペッリオ。1821年2月24日、ローマでのロッシーニ《マティルデ・シャブラン》初演のアリプランド。1822年、ドニゼッティと時を同じくしてナポリに拠点を移したため、ドニゼッティのオペラの初演に多数出演している。主なものだけでも、1822年5月の《ラ・ジンガラ》のドン・セバスティアーノ、1823年9月の《幸福な騙し》のオルテンシオ・フランチェスケッティ、《リヴァプールのエミーリア》のクラウディオ、《2時間で8ヶ月》のイヴァーノ、《ベトリ》のマックスを創唱した。
この中で、エリーザのアデライデ・カタラーニだけは、前述の通り、これがオペラの舞台でのデビューという経験のない歌手だった。
《ブルグントのエンリーコ》の初演の様子は、近年になって発見された1818年11月17日付のヴェネツィアの新聞『ヴェネツィア新観察者 Nuovo Osservatore Vneziano』紙の公演評によって詳細が判明した。そこには初日の大波乱が描かれている。
私は何を言うべきであろうか?オーケストラの中での争いや、歌手の間での諍いを強調すべきだろうか?私は、初めて観客の審判に身を晒したこの若い作曲家に同情すべきだろうか?彼は、時に過大な要求をし、時にずいぶんと寛大な運命の気紛れによって、自分の作品が歌においても演技においてもメチャメチャにされる様を目撃するという不運に見舞われた。彼は自らの無謀を自身で非難すべきなのだろうか?だが観客たちは、上演の出来から作品の出来を区別して理解できた。第1幕の三重唱、第2幕の二重唱、第1幕と第2幕のヴェルニのアリアは盛んに喝采を受けた。もしアデライデ・カタラーニ嬢が突然、予期せぬ不調に見舞われ、第2幕第4場の彼女のアリア、第7場における彼女とエッケルリンの二つの二重唱が削除せざるを得なくなってしまうことがなかったなら、おそらくもっとたくさんの喝采があったことだろう。[…]後味の悪い出来事の後において、この音楽の価値について冷静に判断することがもしできるのであれば、それでも彼なりの普段の力量と表現を認めないわけにはいかなかった。そのゆえ聴衆は、幕が下りると、舞台上のドニゼッティ氏を喝采して祝福したのだ。
つまり初日は、エリーザのカタラーニが緊張のあまり具合が悪くなって歌えなくなって、第2幕のカタラーニの出番をあらかた省き、さらにおそらく部分的に誰かが代役を務めて、どうにかこうにか上演を終えることができたのだ。これがオペラデビューの若い作曲家にとって、このトラブルはかなり厳しい試練だったろう。それでも《ブルグントのエンリーコ》は温かく受け止められた。あるいは、劇場の新装お披露目という記念公演だったことで、観客(当然招待客も多かったろう)は普段よりも寛大だったのかもしれない。
さらに11月19日付の『ヴェネツィア特恵新聞 Gazzetta privilegiata di Venezia』にも短い評が掲載された。
この劇場の修復にふさわしい立派な上演。いわゆる詩人は新人ではないにしても新進で、作曲家はまったくの新人、彼は良き才能を提供し、今回この困難な仕事に初めて取り組んだのだった。
あまり内容のない評だが、《ブルグントのエンリーコ》が成功を収めたことは分かる。
11月14日の波乱の初日の後、《ブルグントのエンリーコ》は15、16日にも上演された[注2]が、これで上演は打ち止めになった。グリエルモ・バルブランとブルーノ・ザノリーニの『ガエターノ・ドニゼッティ』では、1818年12月26日にベルガモのソチャーレ劇場で《ブルグントのエンリーコ》が上演されたとしている。しかし一ヵ月後の《ばか騒ぎ》初演の後ザンクラの一座がヴェネツィアから移動した先はベルガモではなくマントヴァで、実際、ベルガモでの《ブルグントのエンリーコ》が上演されたという記録は見つかっていない。
注1 サン・ルカ劇場は現在のゴルドーニ劇場(1875年に改称)
注2 OPERA RARAのCD、イタリアオペラの百年 1810-1820 A hundred years of Italian opera 1810-1820 ORCH 103 の解説冊子においてジェレミー・カモンズ Jeremy Commons が『一ヵ月後、カタラーニが力を回復した時、このオペラは12月15日から16日に完全な状態で上演された』と述べているが、12月15日ないしは17日には次作《ばか騒ぎ》がほぼ同じ出演者で初演されており、当日もしくは前日に別のオペラを上演していたとは考えづらい。おそらく初演の翌日にはカタラーニは回復し、ウィリアム・アシュブルックが『ドニゼッティと彼のオペラ』に書いている通り、11月15、16日と上演されたと考える方が妥当だろう。11月19日付の『ヴェネツィア特恵新聞』の評がカタラーニの途中降板について触れていないのは、執筆者が11月15日か16日の公演を観劇したからだと推測される。
蘇演
《ブルグントのエンリーコ》の楽譜はパリのフランス国立図書館に筆写譜が保管されているが、第1幕のグィードとジルベルトの二重唱が欠けており、全曲上演が不可能だった。
ごく最近になって、コペンハーゲン王立図書館でより完全に近い筆写譜が発見され、両者を基にアンデルス・ウィクルンドの校訂によって上演譜が作成された。
蘇演は、2012年7月20日、スウェーデンのヴァステーナ城においてヴァステーナ・アカデミエンによって行われた。初演の3公演以来、実に194年ぶりの上演だった。VADSTENA AKADEMIENの公演案内
あらすじ
※台本が未入手なので、簡単なあらすじに留める。
物語の前提
ブルグントの王アルベルトは弟ウルリーコによって家族と共に暗殺されてしまう。ただ一人、幼い王子エンリーコだけは騎士ボンステーテンによって救われ、ボンステーテンの妻と共に王国の辺境へと逃れる。やがて妻が亡くなり、ボンステーテンは自らをピエトロと騙り、隠者としてエンリーコと暮らすようになる。エンリーコは自らの正体を知らず、ピエトロの息子の羊飼いとして育つ。
成長したエンリーコは、当地の公爵の娘エリーザと相愛になるが、彼女の父は娘と羊飼いの恋愛に反対し、二人の仲を裂くためエリーザを王宮に送ってしまう。
第1幕
アルプスの麓。ピエトロは妻が亡くなってから塞ぎがちである。一方エンリーコも、愛するエリーザがいなくなってしまったことを嘆いている。かつての騎士仲間ブルノーネがピエトロを訪ね、ウルリーコが亡くなり、その息子グィードが王位を継いだ今こそ反乱の時だと告げる。ピエトロとブルノーネはエンリーコに彼の正体を明かし、王の剣を与える。エンリーコは父の復讐を決意する。
アルルの王宮。グィードは道化のジルベルトに民衆の自分への評判を尋ねるが、ジルベルトはお世辞で誤魔化す。一方エリーザは、亡き父が決めたグィードとの結婚を前にして、エンリーコにもう一度会いたいと願っている。グィードはエリーザに結婚を迫る。
晩。エリーザとグィードの婚礼が用意されている中、エンリーコ、ピエトロ、ブルノーネが密かに王宮に到着する。エンリーコはエリーザが結婚すると知って、激しい嫉妬に苦しむ。だが突然の嵐によって婚礼は延期になってしまう。
第2幕
夜。ピエトロとブルノーネは仲間に王子エンリーコの帰還を告げる。一方エンリーコは、エリーザに会うために王宮に忍び込む。彼と出くわしたジルベルトは、エンリーコがグィードに見つかる寸前に彼を匿う。グィードはエリーザに、結婚の約束を果たさねば殺すと脅すが、彼女は結婚するより死んだ方がよいと答え、グィードは腹を立てる。彼はジルベルトに婚礼の準備を命じて出て行く。ジルベルトに案内され、エンリーコはエリーザと再会する。始めはエリーザを誤解していたエンリーコだったが、彼女が父からグィードとの結婚を約束されたことを聞き、二人は和解する。そこにグィードが押し入って来るが、駆けつけたピエトロとブルノーネが、エンリーコこそアルベルト王の王子と明かす。グィードは兵士たちを呼ぶが、時既に遅し、反乱軍が王宮を制圧していた。
夜明け。グィードへの復讐を求める民衆に対して、エンリーコが平和を呼びかけて幕となる。
音楽
※楽譜が未入手で、音源も限られているので、簡単に。
《ブルグントのエンリーコ》を作曲した時、ドニゼッティはまだ20歳だった。天才肌ではないドニゼッティが、まずは時代の様式に沿った音楽を書いたのは当然である。
全曲中最も有名なエンリーコの登場のアリア Care aurette che spiegate は、管弦楽による前奏+管弦楽伴奏のレチタティーヴォ+カヴァティーナ+中間部(テンポ・ディ・メッツォ)+カバレッタ、という、この時代のオペラ・セリアの大アリアとして典型的な構成を取っている。前奏は、まだ若い固さはあるものの、姿を消したエリーザを思うエンリーコの不安が見事な緊張感で描かれている。レチタティーヴォでは、伴奏部分を単なる歌の合いの手に留めない工夫が見られる。カヴァティーナは、ロッシーニの男装コントラルトのアリアのカヴァティーナの影響が濃い。驚くべきはカバレッタで、冒頭 Mi scende all'anima Voce d'amore... につけられた旋律は、ドニゼッティの名声を不動のものにした傑作《アンナ・ボレーナ》(1830 ミラノ)で最も有名な旋律、アンナの狂乱の場における Al dolce guidami castel natio の、まさにあの旋律である。傑作曲の有名な一節が若書きの作品の中に見出せることは大作曲家ではよくあることだが、これもその一例だ。この後すぐに常套的な装飾的音楽に転じてしまうのは仕方ないが、それでもこの一節は20歳のドニゼッティの音楽的潜在能力の高さの証拠と言えるだろう。
男声合唱を伴ったロンドフィナーレは、やはりこの時代の男装コントラルトのロンドフィナーレの様式に則ったものだが、ロッシーニの同様な楽曲と比べると装飾はだいぶ控えめである。若いエッケルリンがまだ高度な装飾歌唱に対応できなかったのかもしれないが、後の《村の結婚式》初演失敗の後、ドニゼッティが苦渋の方針転換を決意せねばならなかったことからすると、こうした装飾控えめの音楽の方がドニゼッティの趣味だったのかもしれない。
序曲は、まったくの『ロッシーニのエピゴーネンの作』に留まっている。短調の第1主題は容易に《セビリアの理髪師》のそれを想起させる。一方で当時流行の『ロッシーニクレッシェンド』(これはロッシーニだけが得意としたものではなく、ドニゼッティの師匠マイールも活用している)を用いてはいるのだが、まだ音楽を盛り上げるオーケストレーション上の工夫が乏しい。
参考資料
William Ashbrook / Donizetti and his Operas / CAMBRIDE UNIVERSITY PRESS / Cambridge / 1983 /ISBN 0-521-27663-2
William Ashbrook / Donizetti La vita / EDT / Torino / 1986 / ISBN 88-7063-041-2
Guido Zavadini / Donizetti / ISTITUTO ITALIANO D'ARTI GRAFICHE / Bergamo / 1948
ガエターノ・ドニゼッティ ロマン派音楽家の生涯と作品 / グリエルモ・バルブラン,ブルーノ・ザノリーニ / 高橋 和恵 訳 / 昭和音楽大学 / 神奈川県 / 1998 / ISBN4-9980713-0-0
フェスティヴァル・ドニゼッティ・オペラ2018年の上演の収録。上記の通り、2012年7月20日にスウェーデンで復活蘇演された翌年の上演。